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遠い水平線の夢

目線の先にはいつもの見慣れた海岸。
見慣れた?
わたし、前にもここに来たことがあったの?
ここはどこだろう。

右足は太陽の熱の伝わる真っ白な砂の上に、左足は冷たくごつごつとした小石に乗っている。

目線を上げると、右側の海水はどこまでも透き通ったコバルトブルーで、左側は日本海のような鈍色をしている。
中央で二色が混ざり合い、そのどちらとも言えない青碧色をした波が立っている。

右から左へ流れるように移動する人。
逆に左から右へと海面を滑るヨット。

別の色をした海でも、行ったり来たりできるのだなぁ。
空は、同じ色なのだなぁ。

海を、水平線を、ぼんやりといつまでも眺めていた。

遠い水平線を読み終わった日の夜に見た夢。
あべこべの海と海岸が真ん中で繋がって、空はただ一つという絵のような風景。

そこを自由に行き来する人々やヨットが、タブッキの描く境界線の曖昧な世界を見せてくれたようで、目覚めたあとも夢と現実が混ざりあったような不思議な感覚を味わった。

昔々のこと。
8時間の勤務帯で、3人の方々を見送っていたことがある。
まだ温かい身体を拭き清め、針跡に絆創膏を貼る。
浴衣を纏った彼らの横で、ふとこの人はどんな人だったのだろうと考えることが癖というか習慣というか当然そう考えなければならない義務があるような、そんな気持ちになっていた。

今閉じられたばかりのこの人の人生の記憶はどこへ行くのだろう。
身体とともにこのまま眠りにつくのだろうか。
それとも身体を抜け出して、どこかへ浮遊していくのだろうか。
若しくは今もまだ終わったことを知らずにどこかに刻み続けられているのかもしれない。

遠い水平線を読んで、その頃のことが何と無しに思い出され、スピーノはなぜ身元不明の男を探し続けたのだろうか、スピーノは闇へ進んだあと、どこへ行ったのだろうか、と思案したけれど答えはわからなかった。

《存在した》という状態は、いわば《第三類》に属していて、《存在している》とも、《存在していない》とも、根本的に異質なことである。

表紙を開いたところに書かれたウラデイミール・ジャンケレビッチの言葉。

いるのかいないのか、戻るのか、戻らないのか、そんなことはさして重要ではないような気がした。

ある夜運び込まれた身元不明の男の他殺死体。死体置場の番人スピーノは、不思議な思いにかられて男の正体の探索を始める。断片的にたどられる男の生の軌跡、港町の街角に見え隠れする水平線。

卍丸くんが大好きで、これまでに何度となく読み返しているという作品。
私も、きっとまた読み返すと思う。

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