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源氏台頭への道標!!前九年の役について~会話文形式でわかりやすく~

歴史創作としてお読みください!

1、登場人物

藤原登任(ナリトウ)、後冷泉天皇、源頼義、源義家(頼義の息子)、金為時、藤原景季、佐伯経範、清原光頼、清原武則(光頼の弟)

VS

安倍頼時、安倍貞任(サダトウ)、安倍富忠(頼義側に裏切ってしまったやつ)、藤原経清

2、背景

陸奥国の有力豪族である安倍氏は陸奥国内に柵や砦を築いて半独立国家を形成していた。その中の11世紀半ば、安倍氏は朝廷への納税を怠るようになった。

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~陸奥国府~

藤原登任(陸奥守)「安倍氏めーー!!朝廷への納税を滞らせおって!許さん!この登任が成敗してくれるわ!!!!」

こうして1052年に藤原登任は数千の兵を従えて安倍氏の成敗に動いた。

3、戦いの経過

~陸奥国鬼切部(現在の宮城県)~

藤原登任「安倍氏の兵が目の前にいるぞ!かかれえー!」

安倍頼時「藤原登任など敵ではない!ただの腰抜けぞ!かかれーー!!」

両軍「うおおおおおおおお!!」

~数時間後~

藤原登任「くそッ!敵が強い!!ここは逃げるぞ!無念じゃああああああああああ」

鬼切部の戦いと呼ばれるこの戦いで陸奥守藤原登任は敗北し、登任は陸奥守の役職を解任された。陸奥守の後任には源頼義が任じられた。

安倍頼時「やっぱり藤原登任は腰抜けだったわい!ぐははははああああ!しかし、朝廷に逆らってしまったことに変わりない。今朝廷と戦う気もわしにはない!いかがしようか、、、。」

安倍頼時の家来「ひとつ案を申し上げてもよろしいでござんすか?」

安倍頼時「よかろう!!うははッ!」

安倍頼時の家来「この頃、後冷泉天皇の祖母である上東門院様が病気がちだと聞いておりまする。その病気治癒の祈願と共にこの罪の恩赦を願うのはいかがでござんすか?」

*恩赦:罪を許すこと

安倍頼時「それはいい案じゃ!ぐはははははッ!早速朝廷に赴く準備を致せ!」

安倍頼時の家来「わかったでやんす!」

~朝廷~

後冷泉天皇「よくおいでなさった安倍頼時や。朝廷に逆らった罪、、、、、、、、、許す!!!!!私の祖母の病気回復の祈願も大儀であった!」

安倍頼時「(そこまで溜めなくても。緊張した、)ありがたき幸せ!以後朝廷のために働きまする!」

こうして安倍頼時は罪を許された。さらに、頼時はその帰り道陸に陸奥の国府も訪れ、新陸奥守源頼義と会った。

~陸奥国府~

源頼義「私が新しい陸奥守である。前任の者とはいろいろあったと思うが以後しっかり働いてくれ!」

安倍頼時「はーーーーーッ!」

それから平凡が訪れていたが、1056年時代は急変する。

~1056年~

~陸奥国府~

源頼義「もうすぐ任期が終わるなあー。短いものだったのォ!何事もなく終わるといいが、、、」

伝令「頼義様、藤原光貞様(頼義の家来)より文が届いておりまする!」

頼義「見せてみー!」

伝令「はッ!」

頼義「うむうむ、、、何!?野営しているところを攻撃された?!それでうむうむ、、何?!以前安倍貞任から光貞の妹が欲しいと言われ安倍氏のような卑しい家に嫁がせることはできないと光貞は返答した。それに根を持った安倍貞任の犯行に違いないと書いてある。わが部下を襲うとは、、ゆ、許せん!!安倍貞任を呼び寄せて処罰する!!」

その数日後、安倍氏の館では

~安倍氏館~

安倍頼時「息子よ、なんと愚かなことをしでかしたのじゃ!!」

安倍貞任「も、申し訳ありません!我が一族を侮辱されたのでつ、つい。」

頼時「頼義殿からそなたへの出頭命令が出されておる。しかし、父としてそなたをみすみす渡すわけにはいかん!共に戦おうぞ!!」

貞任「力のかぎり尽くしまするーー!」

阿久利川事件と呼ばれるこの事件で再び安倍氏は反乱を起こす。さらにこの事件をきっかけに頼義側についていた藤原経清が安倍氏側に裏切った。また、この阿久利川事件には諸説あり、藤原光貞などの反安倍氏勢力の陰謀であったとする説もある。

こうして源頼義と安倍氏は戦闘状態となり、一進一退の攻防が続いた1057年5月に源頼義は一計を案じ、状況を打開しようとした。

~1057年~

~源頼義の陣~

頼義「この状況を打開せねばならぬなあー。金為時はおるか?!」

*金為時:源頼義の部下で気仙郡司

金為時「ここにおりまする!!」

頼義「安倍氏側に安倍富忠という者がおったな。こやつを調略してまいれ!!」

金為時「はッ!!」

この調略活動によって頼義は安倍富忠を含む津軽の俘囚を多く味方に取り込むことに成功した。

その頃安倍氏の館では

~安倍氏の館~

安倍頼時「ズルズルッ!カアッ!この茶はうまいのう。この戦長期化して出口が見えん。どのようにすれば、、、」

伝令「頼時様!!」

頼時「なんじゃ!ゆっくりしておるところに。首刎ねるぞ。

伝令「津軽の安倍富忠が源頼義側に寝返りましたぞ!!」

安倍頼時「なに?!安倍富忠が裏切っただと?!津軽から攻撃されたら我が軍は挟み撃ちされてしまう。こ、これはまずいぞ!私自ら津軽に向かい説得致す!馬の準備を致せ!!!」

伝令「はッ!!」

~数日後~

安倍頼時は裏切った安倍富忠の説得に向かっていた。

安倍頼時「富忠は何を考えておるのか。私の思いが届くといいが、、」

頼時の家来「殿!!!!あ、危ないでやんす!!!」

頼時「ん?うががが!!!!!ひッ!!!ぐはッ!」

頼時の家来「殿!大丈夫でやんすか?!」

頼時「だ、大事ない!ぐはっ!矢が胸に当たっただけじゃ!それよりどこの軍勢じゃ!攻撃したのは!」

頼時の家来「こ、この旗は安倍富忠の軍勢かと?!」

頼時「ここは一旦退くぞ!!ぐはッ!」

しかしながら、

頼時「ここは何処か?」

頼時の家来「本拠地まであと少しの鳥海柵にごぜいます。」

頼時「わしはもう限界じゃ、。息子の貞任を頼、、む。うはッ!」

頼時の家来「死なねえでくだされー!頼時様!!!うあああああ!」

こうして安倍頼時は本拠地の衣川に着く直前の鳥海柵で力尽きた。そのあとは息子の安倍貞任が継いだ。一方、源頼義は安倍頼時の死による褒美がもらえず、さらなる攻撃を計画していた。

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~陸奥国府~

頼義「頼時が死んだというのになぜこれほど安倍氏は粘り強いのか?!しかも褒美も貰えん!この機に安倍氏をぶっ潰す!!出陣じゃ!!!」

頼義の兵「うおおおおおおおお!!」

源頼義はおよそ2500の兵を率いて陸奥国府を出陣した。

その頃安倍軍は河崎柵(現在の岩手県一関市)で兵を集めていた。

~河崎柵~

安倍貞任「父の仇を必ず討ってやる!!今どのくらいの兵力が集まった?!」

貞任の家来「約4000でござんす!」

貞任「敵はどうじゃ!!」

貞任の家来「約2000でござんす!」

貞任「勝機は我らにあり!出陣じゃーー!!!!」

貞任の兵「うおおおおおおおお!!」

こうして両軍は出陣し現在の一関市にある黄海(キノミ)という場所で激突した。時期はであった。

~頼義の陣~

頼義「突撃じゃーー!!」

頼義の兵「うおお。」

頼義の兵たちは冬季の遠征で疲労しており、物資も乏しかった。

~貞任の陣~

貞任「頼義なんぞに負けるな!父の仇を討つぞ!!!!」

貞任の兵「うおおおおおおおお!!」

~数時間後~

貞任「頼義の兵は腰抜けなのか?!全く足が動いておらぬ!攻勢を強めよーー!!」

貞任の兵「うおおおおおおおお!!」

~頼義の陣~

頼義「くッ!兵が疲れて動けていない!!こ、これはまずいな!」

義家(頼義の息子)「父上!敵が目の前まで迫っておりまする!こ、ここは一度ひいてはどうでしょうか!」

頼義「そ、そうだな!し、仕方ない!」

藤原景季(頼義の家臣)「私が殿を務めましょう!!!生きて帰ってまた酒を飲みましょう!!」

佐伯経範(頼義の家臣)「某もここで奮戦いたす!!殿!どうかご無事で!」

頼義「皆の者すまぬ!陸奥の国府でまた会おう!!!」

こうして黄海の戦いと呼ばれるこの戦で源頼義は大敗を喫し、頼義は息子義家を含む僅か7騎で戦場を脱出した。さらに、頼義は30年来の家臣である佐伯経範や藤原景季など多くの有力家来を失った。一方、この戦いに勝利した安倍貞任は陸奥国府を凌駕する権力を握ることとなる。

この敗戦から時がたち1059年頼義は安倍氏打倒の兵をかき集めていた。

~1059年~

~陸奥国府~

源頼義「黄海の戦いで経範や景季など有力な家来を失ってもう2年か。もう一度あの者たちに会いたいのう、、、」

源義家「父上!安倍氏との戦が続いている以上、そのようなことを言っておる暇はありませぬぞ!」

源頼義「そ、そうじゃな。しかし、、少しずつ兵力を回復しているが鬼切部と黄海での敗戦の影響で思ったほど回復してきてはいない。どうすればええのか、、、」

源義家「関東などの別の地域から兵を集めてみてはいかがでしょうか!」

頼義「別の地域か、、いい案じゃ!!早速文を出せい!!」

義家「はッは!!!」

そのころ衣川にある安倍氏の館では

~安倍氏の館~

安倍貞任「二度の戦いでの勝利によって我らは着実に勢力を伸ばしている。もはや我らを止めることはできぬ!!頼義の動きはどうじゃ?!」

貞任の家来「二度の敗戦で思うように兵力を回復出来てねぇでやんす!」

貞任「ハハハハハッ!!それはたいそう頑張っておられるようで!ウハハッ!独自に税金を集め始めたがそれは順調か?」

貞任の家来「最高に順調でやう!」

貞任「そうか!我らの勢いは衰えることを知らんな!ぐはははははッ!」

しかしながら、1062年事態は急変する。

~1062年~

~陸奥国府~

頼義「任期は切れたが、新しくきた陸奥守に郡司たちは従わずわしが再任した。必ず安倍氏を討ち滅ぼさねば!」

義家「父上!そうですな!しかしながら、そうは言ってもまだ苦しい戦況にかわりございません。いかがなさいますか?」

頼義「ここは一計を案じることにしよう!」

義家「(そんな策があるならもっと早く出せよ)それはどのようなもので?」

頼義「出羽国の仙北というところに有力豪族の清原光頼という者がおる。このを朝廷の名を後ろ盾にし、強く参戦を求める!まあープレゼントもしっかり渡すことにしよう!」

義家「それいい案でございますな!」

この策は功を奏し、清原一族を頼義側に引き寄せることに成功した。

一方、安倍貞任のもとにもこの知らせが舞い込んだ。

~衣川の安倍氏館~

安倍貞任「な、なに?!清原一族が頼義側についただと!?」

貞任の家来「そのようなでごぜえます!」

貞任「い、いかん。急ぎ領内の防衛を引き締めよ!!!」

貞任の家来「わかったでやんす!」

そのころ頼義側についた清原光頼

~清原氏の館~

清原光頼「頼義様から度重なる参陣要請。極めつけは頼義様が私に臣下のまでしてきた。頼義様をお助けせねばならぬ!!武則は何処におる?!」

清原武則(光頼の弟)「ここにおりまする!」

光頼「そなたを大将として約7000ほどの兵を与える。急ぎ陸奥方面へ出陣せよ!」

武則「(兄上は出陣しないのかよ)はッ!!」

こうして清原・頼義連合軍は約1万の兵力で出陣した。連合軍は衣川を含む数々の安倍氏の拠点をを陥落させ、安倍氏領内の北部の柵である厨川柵に安倍貞任を追い詰めた。

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~厨川柵内~

安倍貞任「も、もはやこれまでかもしれぬ、、もうすぐ連合軍の総攻撃が開始されるであろう。」

貞任の家来「弱気なことを言わねえでくだされ!ここは一旦お逃げいただき安倍氏再興を計りましょうぞ!」

貞任「そ、そうであるな」

~頼義の陣~

頼義「死んでいった仲間たちの仇を必ず討つ!!!武則殿そろそろ行きましょうぞ!!」

武則「わかりもうした!!!!」

頼義・武則「全軍突撃じゃーーー!!!!」

連合軍の兵「うおおおおおおおお!!」

こうして前九年の役における最後の戦いが開始された。

~厨川柵内~

貞任「うおおおおお!安倍氏を滅ぼすわけにはいか、ぐはッ!」

貞任の家来「殿!!大丈夫でやんすか!」

貞任「ぐあッ!うぅう!ぐあああああ!」

連合軍の兵「い、いたぞ!貞任だ!捕らえろ!」

貞任の家来「殿の首は渡さぬ!うおおおおおお」

しかし、貞任は深手を負ったまま捕らえられ、頼義の目の前まで引き出された。

頼義「よくぞここまで反乱を起こしてくれたな!」

貞任「うぅ!ぐはッ」

バタッ!ドスンッ!

貞任は頼義を一瞥しただけで息を引き取った。こうして安倍一族の滅亡という形で前九年の役は終結した。開戦から12年後のことであった。

4、結果

清原一族は奥州の覇者として君臨することになった。一方、源頼義は、朝廷に戦果を報告し、恩賞をもらおうとした。しかし、願っていた恩賞はもらえず、2年に渡り朝廷と交渉を続けることとなった。また、頼義の命で処刑された藤原経清の遺児は清原氏に引き取られた。その遺児は奥州藤原氏の基礎を築いた藤原清衡であった。

5、歴史の時間

〇源頼義、義家親子の最高の子孫

この頼義、義家親子の子孫には鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏がいます。この親子から日本の歴史が生まれたと言っても過言ではないと思います。

〇実際は12年なのになぜ名称は前九年の役?!

元々この戦いは「奥州十二年合戦」と呼ばれていました。しかし、『保元物語は』や『源平盛衰記』などでは「前九年の役」と記載されています。それは源頼義が本格的に参戦してから9年という頼義に焦点当てた説や「奥州十二年合戦」が後三年の役と合わせた名称と誤解され、そこから3年引いたという説など諸説あります。


























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