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今はもう、あなたの瞳の記憶だけ
好きな人と、おでこがくっつくほどに近づいて起きる朝が好きです。
私は大抵の人より早起きで、だから恋人と一緒に過ごす日には休日の数時間を起きたり眠ったり、うつらうつらと過ごします。
そんなふうに時間を持て余している私は、好きな人に思い切り近づいてその温度を確かめてみます。どうだろう、今日は、どんな朝だろう。
たいてい、その肌はあたたかくて、私の好きなその人の匂いがしています。首の横に顔をうずめて、くんくんと息を吸い込んでみます。
シーツのにおいと、髪の毛のにおいと、肌の匂いが、少しだけ混じっている。私は、東アジアの人たちの、この洗いざらしのような少し幼い肌の匂いが、好き。
長い恋愛のエッセイを書いた夜、昔好きだった人の顔を、今はもう鮮明には思い出せないことに気付きました。
私が、大好きだったはずの人。
好きだった人と遊びの人の違いは明確で、遊びの人の瞳の記憶は、いつも私を抱いた時の視線で止まっていました。私が思い出せるのはその姿だけ。その瞳が見つめている私も、きっと少し苦しそうな顔をしている、ただその一瞬の映像だけ。
でも、私が心底好きだった相手のことは、むしろそういう情景を思い出すことが出来ないんです。
彼が、私を腕枕しながら抱き寄せた時のあたたかさ。もうすっかり目が覚めた私を見つけた、その寝ぼけた眼差しが開いていく時間。好きだよと抱きしめる瞳のまつげの長さ。
いちいち愛おしくて、私が思い出しては心を掴まれていた情景たちでした。
清潔なシーツと彼の腕との間に収まっていれば、世界が平和で自分が愛おしい存在に思えたあの朝に、彼が私を見つめる眼差しは深く優しいものでした。
それを、思い出せなくなっています。
今、私のそばにいる人の顔が、ふと重なってくるのです。
思い出せないことに辛さはないけれど、こうやって時間が流れていくのだという漠然とした抗えない力に淋しさは覚えます。
それだけ、私のことを見守っていくれる別の存在があるということは嬉しいのに、自分をつくってくれたものとは切り離される思いがします。
そうか、こうやってみんな、最後は忘れていくのか。
忘れていることすら忘れているのですね。何気ないことが、もうあの人を思い出させることはなくなっていくのかもしれません。私は今の安心をくれる恋人に、その分感謝しなくてはいけないんでしょう。
あの瞳が、大好きだったことを覚えています。
優しかった。
ゆっくり、流れていく。
今はもう、恋人の記憶に塗り替えられていく。
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