探究とは?
こんにちは。
向敦史(むかいあつし)です。
今回のテーマは、「探究とは?」です。
僕が所属している会社は「探究学舎」という名前で、子どもたちに興味の種をまくという仕事をしています。
そんな探究学舎で働く僕にとって、探究とはなんだろうか?それが、今回のテーマです。
面白い授業をすること、子どもが受け身になること
最近始まった中高生の授業「哲学編」をみながら、色々と感じることがありました。普段探究学舎の授業を担当するのは、若手の元気のいい社員たちです。
しかし、今回の哲学編を担当したのは、百戦錬磨の年配の熟練講師。彼は、子どもたちの中に答えが湧き出てくるのを徹底的に大事にするスタイルでした。見事でした。
しかし、授業をする中で、こんな声が聞こえてきました。
「もっと楽しいアクティビティを増やして欲しい」
「わかる瞬間をもっと増やしてくれないとつまんない」
「ちゃんと答えを教えて欲しい」
もちろん「面白い!」「自分たちで集まって哲学の話を深めよう!」という声もありました。
こうした声を聞いた時、僕の中でモヤモヤとした気持ちが。
「面白い授業をして、その結果、子どもたちが面白い授業しか受けたくないとなる。それは果たして、探究者を育てているのだろうか?」
確かに、面白い授業をすることができれば、興味の種をどんどん蒔くことができる。しかし、その反面、子どもたちにとって、面白い種が蒔かれることが当たり前になり、自分で種を探す必要がなくなってしまうのではないか。
「学校の授業も探究みたいだったらいいのに」
「今日の先生はつまらない」
「このテーマは興味ないや〜」
こんな声は、自分も当然持ちます。でも、その声を発している時の自分って、全然探究してる感じがしない。
もし、探究学舎で面白い授業を提供した結果、そうなりやすくなってしまうのであれば、それは本当に探究者を育てられているのだろうか?
子どもたちが探究者となっていくために、私たちは何を提供したらいいんだろうか?
それを考えようと思った時に、改めて浮かんできた問い。それが、
「そもそも、探究者ってなんなのだろうか?」
でした。
探究者とは?
探究者ってなんなのだろうか?
探究する者?。(文字通り。)
では、「探究」ってなんなのだろうか?
ここから、僕の「探究」の「探究」が始まりました。
自分はどんな時に探究している感じがする?
まず手始めに、自分がどんな時に探究している感じがするかを振り返ってみました。
最近だと、ゴルフをした時。
スポーツは、それなりに全般的にできるので、ゴルフもそこそこできるだろうと思い、初めて打ちっ放しに行きました。すると、
驚くくらい、ボールに当たらない。
まっすぐ飛ばない。
隣のおじいちゃんは、明らかに僕より筋肉が少ないのに、ガンガン飛ばしている。
なぜだ。
そこから、僕のゴルフの探究が始まりました。
まず、やってみたのは、動画を撮ること。自分のフォームを客観的にみてみる。プロト比べると、完全にきもい。背筋を伸ばしたり、肘の角度を直したりと色々しつつ、変なところを自分より上手い人に教えてもらったりもしました。
まあ、今も、まだまだ下手なのですが。笑
こんな体験を元に、自分が「探究」してる時の特徴を抽出してみました。
「探究」している時の感覚とは?
僕が探究している時を思い出すと、以下のような感覚が抽出されました。
・モヤモヤ
・イライラ
・スッキリ
・ついつい考えちゃう
・止められない、やめられない
・夢中
・そればっかり頭に湧いてくる
・より高次の自分になった感じがする
・気づいたら自分の考えや行動が変わっている
こんな感覚がありました。
なるほど、こうした感覚が湧いていると、探究している感じがするのか。
じゃあ、どうしたらこういう感覚が湧いてくるのか?
これも考えてみました。
探究している「感覚」の発生条件とは?
・簡単に答えが出ない
・わかりそう、できそう
・進捗感がある
・フィードバックがある
・目的が明確
・忙殺されてない
・追われてない、ある程度の余白がある
・フィードバックをくれる他者がいる
・それが、好き
・こだわっている
・わかったとき、解決した時への気持ち良さを感じている
・スッキリしたいという気持ちがある
こうしたものが出てきました。
少し、まとめてみると、以下になります。
自分が好きなものに関連する、「答えが出そうだと感じつつも、すぐには解決しない課題。でも解決したら絶対気持ちいい課題」に取り組んでおり、その過程では進捗が感じられるフィードバックを得られている。
これが僕にとっての探究している感覚の発生条件です。
…うん。ちょっと長い。
もっと簡潔にまとめられないのか…。
そこで、職場の同僚と話す中で、面白い一言が生まれました。
探究=Discover、「カバー」を「ディス」する
探究を英語に直す時、「Inquiry」と訳されることが多いです。しかし、私たちにとっての「探究」は、「Discover=発見する」の方が、しっくりくるという意見がありました。
そこで、1人が一言。
「そうか、『カバー』を『ディス』するのか。」
…それだ!!!
僕の中で電気が走りました。
こんな景色が浮かびました。
街の祭りが行われるある日。ここは、祭りの会場につながる1つの道。
私の目の前には、大勢の人がいる。そして、その向こうには城壁と門が一つ。
門には、ベールが垂れている。
そして、ベールの向こうには、熱狂的な歓声。ものすごいエネルギーがそこに渦まいている。
あと少し。あと少しで、ベールをくぐって、あの熱狂の中に。。。
そんな瞬間、どう思うだろうか?
きっとこう思う。
「この向こうに行きてええ!」「ベールをめくりてええ!」「中に入りてええ!」
この感覚って、まさに、自分が探究している時の感覚に近い!
目の前に絶対面白いとわかっているものがある。あと少しでそこにたどり着けそうな感じがする。そこに向かう足を止められない。ワクワクが湧き出してくる。
この感じ。
そうか、カバーをディスする。カバーをめくる。ベールをめくる。
この感覚が、探究する感覚を見事に言い表している!
Discoverが探究を表す一言として、私の中に腑に落ちました。
つまり。
探究とは、カバーをディスすること。Discoverすること。
ということは!
探究者=Discverしようとしている人
なのだ!
探究者が育つには?
探究者=Discverしようとしている人ということは、探究者が育つということは、Discoverすることが楽しいという経験をたくさん浴びることが大切。
ということは、私たちが提供するサービスの根幹は、どの瞬間にも、子どもたちが「Discoverするのって楽しい!」を体感できる仕掛けが組み込まれたものです。
その視点でサービスを見返すと、僕の中では今までと違う景色が見えてきました。
同じようなスライドを使って、似たような言葉で授業をしていても、ちょっとした言い回しの違いで、子どもたちをDiscoverに誘うものと、情報伝達にとどまってしまうものが明確に違って見えてしまうのです。
新任とベテラン:「Discoverへの誘い」という技術
ある時、講師の研修がありました。そこでの一場面。
アルカリ金属の特徴である「水に触れると発火する」を扱う授業をデモで実施していました。
扱う情報は、アルカリ金属である、ルビジウムとセシウムをトイレやお風呂に入れて爆発させるという動画を見せるというもの。
まずは、新任から。新任の講師は以下のように説明しました。
<新任>
「さっき、ナトリウムを水に入れると燃える動画を見た。他にも、ルビジウムとセシウムをトイレやお風呂に入れる動画を持ってきたんだよね。これ、入れると実はめちゃくちゃ爆発するの。やっばいの。見たい?見たい人ー?」
と言いました。これでも、まあ、ぼちぼち面白い。
しかし!次に授業をしたベテラン講師。
<ベテラン>
「みんな、ナトリウム水に入れるとどうなった?そうだよね、火がついた!しかし!!驚くことなかれ。アルカリ金属の中で、ナトリウムはなんと…最弱!実は、アルカリ金属には、最強のボスがいる!それが、この2つ。ルビジウム!セシウム!
さっきのナトリウムも水に入れると火が出てたよね?最弱なのに。…え?ってことは、最強のボスの2つを水に入れると…?!どうなっちゃうの!?だよね!爆発しそう!
…実は、私見つけちゃいました。とある動画を。なんと、このルビジウムとセシウムをトイレに入れてみた動画!えー!一体どうなるの!?見たい?いやーでもめっちゃ危険な動画だからなあ、どうしようかなあ。見たい?見たい人ー!?」
もう、引き付けられ方が全く違う。ちょっとした言い方の違い。同じ教材を使っているのに。
新任のパターンが、こっちが用意した情報を子どもたちに与えているのに対して、ベテランのパターンは、子どもたちの目の前にベールを垂らして、このベールをめくるとめちゃくちゃ面白そうなんだけど、めくってみる?と提案しています。
この子どもたちの目の前にベールを垂らして、めくってみる?という提案をすることが、まさにDiscoverへの誘いであり、その瞬間の子どもたちの心の状態こそが、探究している状態なのです。
価値の中心の移動:「情報」から「Discoverしたい!という感覚」へ
つまり。
授業をする側がどんな体験を提供しようとしているか(情報伝達か、誘いか)によって、同じ情報、同じスライドを使っていても、全く子どもたちの中に起こることは違ってきます。
その視点で捉え直すと、私たちが提供するのは、情報として面白い授業では決してない。
私たちが提供するのは、その情報を受け取った時に、心の中で「Discoverしたい!」が湧き上がるような授業。
つまり、価値の中心は、「情報」ではなく、情報を受け取った時に湧き上がる「Discoverしたい!」という感覚なのだ!と気がつきました。
このDiscoverしたいが積み重なり、それが楽しいもの、心地いいものとして形成されると、日常の中でも自然とその感覚を追い求めるようになります。
その結果、きっと、子どもたちは当たり前のように探究し、その結果として、どんどん何者かになっていく。未来が広がっていく。
そんな景色が見たいなあと思いました。
「勉強」から「探究」へ
教育者側の教えたい順番で、教えたい内容を伝える。これは、教育の中で繰り返し行われてきたことです。
100年以上前、教育哲学者のジョン・デューイが「学校と社会」の中で以下のように述べました。
旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子どもたち以外にあるという一言につきる。重力の中心が、教師・教科書、その他どこであろうとよいが、とにかく子ども自身の直接の本能と活動以外のところにある。(中略)。いまやわれわれの教育に到来しつつある変革は、重力の中心の移動である。それはコペルニクスによって天体の中心が地球から太陽に移されたときと同様の変革であり革命である。このたびは子どもが太陽となり、その周囲を教育の諸々のいとなみが回転する。子どもが中心であり、この中心のまわりに諸々のいとなみが組織される。(49-50頁)
今、まさに、学びの重力の中心は子どもたちに移動してきています。
こうした学びを作る思想として、まさに、「Discoverしたい!」を生み出すことがあるのではないかと思います。
自然に学ぶ。むしろ学ぶことが楽しく、学ぶのは当たり前。
そんな社会をみるためにも、僕は「Discoverしたい!」という瞬間を作り続けていきたいし、授業のすべての瞬間がそうであるようなものに磨いていきたい。子ども中心の授業設計の思想を、これからの当たり前にしていきたい。
そんなことを思いました。
あとがき:僕の探究
ここまで、「探究」の「探究」の記事を書いてきましたが、今日の午前に書き始めて、ほとんどずっと夜の21時まで考えては書いてを繰り返していました。
時間の感覚が消失して、書くことをやめられない感じ。
あと、改めて文章化した時に、やっぱり、もう過去の自分には戻れない。「Discoverしたい!」が生み出せているのか?という視点で授業を見てしまう。気がついたら自分の考えや行動が変わってしまうのも、探究の特徴だと思いました。
ここに書いたことは、今日2020年11月14日(土)の自分の考え。しばらく経つとまた更新されることと思います。
ただ、今日は、探究とは何か?探究者とは何か?がちょっとスッキリしました。
今度は、いかにすれば「Discoverしたい!」を生み出すことができるのか?についてもまとめてみたいなあと思っています。
おしまい。
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