哲学は何をしてきたのか?
こんにちは。
向敦史(むかいあつし)です。
久々に、本を一言一句読み通しました。良い本だなあと思ったので、読書記録です。
それが、こちら。
竹田青嗣(たけだせいじ)による、「哲学とは何か」です。
今まで、哲学と聞くと「難しいもの」という印象があったのですが、今回この本を読んで霧が晴れました。
<本を読む前の哲学に対する印象>
・小難しい
・何言っているか、正直わからない
・どの著作をどこから読んでいいかわからない
・何が主題となっているのかがわからない
・正解のない問いを様々な角度から考えているもの
上記のような印象が、読書を通して全く別の印象に変わりました。僕が上のように思っていた理由は、おおよそ哲学の全体の見取り図がなかったからでした。
哲学は何をなそうとしているのか。哲学はその中でどのような歴史を歩んできたのか。そんな「哲学の見取り図」があることで、哲学への敷居がグッと低くなったように感じます。
哲学の見取り図
時代を追ってみていくと、哲学にもメインストリームがあります。このメインストリームに対して、様々な哲学者が批判をしているのだということがわかれば、かなり哲学全体に対する見通しが立ちます。
哲学のメインストリーム、それは、「いかに争いをなくすことができるか」への挑戦です。より定義っぽく表現し直すと、「自由な市民社会」への挑戦です。以下でおいおい見ていきます。
特に注目する哲学者は、「デカルト」「ホッブズ」「ルソー」「カント」「ヘーゲル」「ニーチェ」「フッサール」です。
哲学とは?
様々な定義が考えられれますが、今回、哲学全体の見取り図を描くために、記事内での哲学を定義してみようと思います。
この記事における「哲学」とは、「世界の説明」です。
「愛とはこういうものである」
「人は愛情を持った存在である」
「神は7日間で世界を作った」
こんな具合に、世界を説明すること、それを「哲学」と呼んでみます。
ん?「世界の説明」が「争いをなくすこと」にどう繋がるのでしょうか?
例えば、「世界は神が作った」と考える人と、「世界はビッグバンによってできた」と考える人がいたとします。意見が食い違ったくらいでは「なんかいけ好かない」くらいにしかならないかもしれませんが、国のルールを決める場合はどうでしょうか。
かたや「聖書を元にルールを作ろう」と主張し、かたや「社会実験の結果を元にルールを作ろう」と主張したとします。ルールに反した場合には罰則があり、それが自分の生活や生き死にに関わるようなルールだったらどうでしょう。少なからず争いが起こることが予想されます。
つまり、自分の「世界の説明」は様々な意思決定、さらには生きることの根本になっており、これが食い違うと争いに繋がる。
そこで、哲学は、より多くの人が「そうだ!」と納得できる世界の説明に挑戦してきました。少し言葉を変えると、「共通了解が可能な世界の説明」への挑戦が哲学の歩んできた歴史です。
では、そんな哲学は、いつ頃始まったのでしょうか?
哲学はいつ生まれたのか?
哲学は、人が集まり都市ができた時に、生まれたと言われています。
古代ギリシャでは、都市ができた時に様々な地域の人々が集まってきました。都市にて、自らの「世界の説明」としてそれぞれの地域に伝わる「伝統や神話」を交換し合いましたが、それぞれの人が慣れ親しんだ伝統、信じている神話は違います。すると、「何が良いことなのか」「こういう場合はどうすべきなのか」といった「世界の説明」がバラバラで、それを元に作られていた「ルール」や「価値基準」もみんなバラバラです。
(図1:破綻する都市<筆者作成>)
「ルール」や「価値基準」が共有できないと、対立が起こります。「お前が間違っている、直せ」「お前の方が間違っているんだよ」と喧嘩になり、商売や損得、名誉、誇りなど様々なことがきっかけで暴力事件が起きるなど、多様性な人が集まる都市では、異なる「世界の説明」をもつ人々は一緒に生活するのが難しい。
こうして、都市という場所で生まれたのが、「共通了解が可能な世界の説明」としての哲学です。
古代ギリシャの場合は、プラトンなどに代表される「ギリシャ哲学」です。この哲学を通して、言葉やイメージを使って「何が良いことなのか」「こういう場合はどうすべきなのか」という価値観を整えることができたからこそ、「善悪の判断」や「ルール」を作ることができ、都市国家として発展することができました。(実際には、多くの奴隷がいたり、参政権がない人が大勢いたりしましたが…)
(図2:共生する都市<筆者作成>)
この共通了解が可能な世界の説明の必要性は、フラクタルになっています。
(図3:社会の発展<筆者作成>)
価値観が異なる「個人」が集まって「家族・集落」になる時も、価値観が異なる「家族・集落」が集まって「都市」になる時も、価値観が異なる「都市が集まって」国家になる時も、価値観が異なる「国家」が集まって「世界」になる時も、やはり「哲学」が重要となります。
(図4:世界の発展と哲学<筆者作成>)
実際には、こんなに直線的かつ単純なモデルにはなりませんが、かなりざっくりまとめました。
<共通了解の発展>
1:家族・集落の成立→伝統・神話により共通了解
2:都市の成立→古代哲学によって共通了解
3:国家の成立→宗教によって共通了解
4:世界の成立→近代哲学によって共通了解
上記のように、人類は、共生する集団内の価値観の多様性が増すに従い、様々な「共通了解が可能な世界の理解の説明」を作り上げてきました。
この共通了解が可能な世界の説明の1つとして、宗教があります。
宗教も、多くの人が納得する「世界の説明」(=神が世界を作り、神が伝えたことが価値基準の根拠となる世界)として大きな役割を果たしました。
しかし、国を超えて、宗教の違う人が出会い始めると、またしても、争いの時代に逆戻り。なぜか。
宗教も「共通了解が可能な世界の説明」を行いますが、宗教は「物語」を用いて世界の説明を行います。
「ある時、こんなことが起こった。その時、神はこのように言い、このように行動した。こうして、世界は〜になった。」
こういった具合に物語を使って、「この世界はどんな世界で、その世界ではどんな風に振る舞うのがいいのか」という「ルール」や「善悪の価値基準」を伝えます。
近代ヨーロッパ以前は、異なる宗教を持つ集団として「カトリック」と「プロテスタント」が衝突しあい、多くの血を流してきました。これは、「宗教」が自らの正しさの根拠を「神」という確かめようのない存在に求めることが理由になっています。
神の存在は「確かめることができない」ので、原理的には無限に作り出すことができます。このため、信じる神が違えば、宗教も異なり、常に信念の対立が起こる可能性があります。
つまり、宗教は、どれだけ「共通了解が可能な世界の説明」に成功したとしても(たとえ10億人がそれに納得したとしても)、その世界の説明が「物語」であり、「神」が正当性の根拠であるため、常に争いを起こす可能性を秘めています。
これに対して、「哲学」は「概念」や「原理」といった「確かめることができる」ものを根拠に用います。
「これはこうなっている」という「原理」を使ったり、「こういうものはこのように表現できる」という「概念」を使ったりです。これらは、誰しもが生活の中での経験と照らし合わせて自分で確かめ、それが自分にとって了解可能なものなのかを見極めることができます。
ここまでを踏まえて、もう一度、哲学の定義をより厳密にしてみようと思います。
哲学とは、「確かめることができる」ものを根拠に使った「世界の説明」です。
表現を変えると、「概念」や「原理」を根拠とする「世界の説明」が哲学です。
そして、哲学の歴史は、「概念」や「原理」を根拠とする「世界の説明」を通して、共通了解を生み出すことへの挑戦と捉えられます。
つまり、この共通了解への挑戦が、世界を争いから解放する挑戦なのです。
<ここまでのまとめ>
<哲学とは?>
「概念」や「原理」を根拠とする「世界の説明」
<哲学の歴史とは?>
「概念」や「原理」を根拠とする「世界の説明」を通して、共通了解を生み出すことに挑戦し、世界を争いから解放する挑戦
哲学を作ったヒーローたち
そんな、「哲学」を作り、世界に安寧をもたらす挑戦者、それが「哲学者」。(めちゃくちゃかっこいい!!!)
(哲学者画像引用元:wikipedia)
今回は、「デカルト」「ホッブズ」「ルソー」「カント」「ヘーゲル」「ニーチェ」「フッサール」をごくごく簡単に紹介しようと思います。(左上から順に)
上記の哲学者には、1つ共通点があります。
それは、「哲学」を作ったということです。
ん?当たり前じゃないかって?
いや、そんなことはないんです。
僕が抱いていた、哲学に対する印象。
・小難しい
・何言っているか、正直わからない
・どの著作をどこから読んでいいかわからない
・何が主題となっているのかがわからない
・正解のない問いを様々な角度から考えているもの
読書をするうちに、これが一体なぜ起こっていたかの原因が見えてきました。それは、哲学の全体の「構図」がわかっていなかったことです。
「構図」を作り出しているのは、2種類の哲学者の存在。
<2種類の哲学者>
1:哲学を作る哲学者
2:哲学を批判する哲学者
哲学者には「作る」人と、「批判する」人がいます。(全然、そんな風には見ていませんでした。)つまり、作る人と批判する人という構図があるのです。
批判する人たちは、作る人の哲学をかなり難しい言葉を使いながら批判していきます。それも様々な哲学者が様々な角度から論じるため、かなり複雑。
そんなことも知らずに哲学書を開いてみると、正直何を言っているかちんぷんかんぷん。。。「難しさ」「わからなさ」「正解のない問いを考えている感じ」は、この批判の構造から生まれていました。
「哲学」を理解する際に重要になるのは、「作る人」が、どんな哲学を作ってきたのかです。この大きな流れを把握しながら、適切に「批判する」人の意見を拾っていくことで、哲学がどのように世界の理解の説明に挑戦してきたかのストーリーが見えてきます。
今回は、様々な哲学者がいる中でも、「哲学」を作った7名をピックアップしました。それが、「デカルト」「ホッブズ」「ルソー」「カント」「ヘーゲル」「ニーチェ」「フッサール」です。
詳しい内容は、本に譲りますが、彼らは「認識の謎」という2000年以上人類が格闘してきた哲学の謎を解明することで、世界を争いから解放しようと挑戦してきました。
近代哲学の大きな壁「認識の謎」
世界中の哲学者がずっと考えてきたこと。
それは、「どうすれば世界の説明の『共通了解』を作ることができるのか」です。
世界には、様々な人がいる。その人々がみんな「うん、そうだ!」とできる「世界の説明」を作る。そんなことが可能なのでしょうか。
哲学の世界では、2000年近く、それは不可能だとされてきました。
何故ならば、「認識の謎」と呼ばれる問題があるからです。
「認識の謎」とは?
例えば、りんご。目の前にリンゴがあるとします。そうすると、以下のように見えます。
(図5:横から見たリンゴ<筆者作成>)
一方で、リンゴが寝転がっていた場合、次のようにも見えます。
(図6:下から見たリンゴ<筆者作成>)
このように、人間は、見る視点や角度はもちろんのこと、文化や価値観によっても様々に現実を切り取って認識します。よって、絶対的に客観的なものを認識することはできない。リンゴ丸々をそのまま認識できる人は存在しなません。
つまり「主観と実際の世界(客観)は絶対に一致しない。つまり絶対的に正しい認識は存在しない。」と言うことになります。
すると。
「俺の見え方が正しい!」
「いやいや、私の見え方が一番正当性があるわ。」
「何いってるんだ、そもそも誰の見え方も正しくなんてないんだよ。」
など、様々な意見が全て間違いとは言えません。何故ならばみんな違うものを見ているから。みんな対等に自由と尊厳を持った存在だと認めると、どっちが正しいかと言えません。
みんなちがってみんないい。
そんな世界です。
ん?いいじゃんって?
いやいや、1つ困ったことが起こるんです。
それは、本当に「全て」の考えが正当化されてしまうということ。
現代の例でいうと、
・無実の人を大量に虐殺した、某収容所での出来事
・国民全員が玉砕する可能性のある作戦を実行しようとした某国の考え方
・肌の色や国や宗教の違いで人を差別すること
・できの悪い子どもを選別にかけること …
など、様々な考えが「全て」正当化されうることになります。
…どうでしょうか?
「主観と客観は絶対に一致しない。つまり絶対的に正しい認識は存在しない。」
これを覆せない限り、全てが間違いではない「相対主義」の世界に陥ってしまう。
さらにいうと、この「相対主義」の世界では、間違いがないことが1つの事態を巻き起こします。それは、正しさの根拠が「力」に与えられてしまうことです。経済力、軍事力、権威といった「力」を持っている人の主張が正当化されます。
哲学は、「認識の謎」を覆すことはできるのか。
これが近代哲学の大きな挑戦となりました。
<ここまでのまとめ>
<認識の謎とは?>
「主観と実際の世界(客観)は絶対に一致しない。つまり絶対的に正しい認識は存在しない。」
<近代哲学の挑戦>
「認識の謎」を覆し、「力」による正当化ではなく、共通了解による社会を目指す。
「力」による正当化からの脱出
まず、紹介するのは、「トマス・ホッブズ(1588-1679)」と「ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)」です。
(引用元:wikipedia)
ホッブズの業績は、一言で言うと、「世界の説明」としての「万人の万人に対する闘争」という概念を生み出したことです。
人間の根本には、分かり合えない「不安」があり、それが元に、放って置くと争いが生じてしまう。そうホッブズは定式化しました。ポイントは、世界で初めて、人間は自然な状態にあると、「不安」が「根本原因」になって争いが起こると、根っこにある課題を明らかにしたことです。
これを受けて、みんなが納得できる「不安」が解消できる「世界の説明」を提案したのがルソーです。
ルソー以前、ホッブズの時代では以下を実行すれば、「不安」が解消されて争いがなくなると考えられていました。
1:王や国家が権力を持つ(王や国家は神から権威を与えられている)
2:ルールを作る
3:守れなかった場合にペナルティを課す
しかし、こうしてルールができることで「不安」は解消されても、市民は王や国家の権力の元に支配されることになります。これは望んでいない。
いったいどうすれば、王や国家がルールを作る以外の方法で「不安」を解消できるのか?
ここでルソーは、王や国家の権威に変わるルールの作り方を提案しました。それが「社会契約」です。
1:みんな自由で平等であることをみんな(王や貴族も)が認める
2:みんなの意見(一般意志)をルールの正しさの根拠にする
3:ルールを一般意志が求めるように運用する
これにより、「世界は王や国家の権力によって平和が保たれる」という「世界の説明」から「自分たちでルールを作り出し平和を保てる」という「世界の説明」に乗り換えが始まりました。
実際に、この「社会契約」という発想が、市民の自由を守る「法律」を作り、法律に基づき国家が運営される社会(法の支配)の到来に繋がります。
こうして、「力」による正当化ではないもので、共通了解を作っていこうという方向性が定まりました。
「認識の謎」を解きあかせ!
ここから、認識の謎にいよいよ哲学者たちが挑戦していきます。
挑戦の扉を開いたのは、ルネ・デカルト(1596-1650)。
(引用元:wikipedia)
彼は、「どうすれば世界の説明の『共通了解』を作ることができるのか?」という問いの答えを探究する鍵を世界にプレゼントしました。
キーワードは「明証性」。つまり「確かめることができるもの」を根拠に、共通了解を作っていこうという考え方です。
この当時の当たり前は、神が正しいというもの。それを徹底的に疑ったのがデカルトであり、その結果たどり着いたのが、「神はいるかはわからない。しかし、そういったことを考えている私がいるのは疑いようがない。」
われ考える、ゆえにわれあり。
という「明証性」の地点でした。
誰しもが、「自分が考えている」ことは認知できるし、それを「確かめる」ことができる。
この後に続く哲学者たちは、こうした「明証性」を手がかりに「共通了解が可能な世界の説明」への挑戦を進めていきます。
しかし!その道の途中で困ったことが起こる。
それが「認識の謎」でした。
主観と実際の世界(客観)の不一致を乗り越えることはできるか?
挑戦は、イマヌエル・カント(1724-1804)から始まります。
(引用元:wikipedia)
カントは、まず、一致することが不可能であることを主張しました。なぜなら、人はそれぞれ違う文化や宗教、慣習を持っていて、その人が見たいように世界を認識しているから、全ての人にとって世界の見え方は異なるからです。
しかし、それとともに、カントは「共通了解の可能性」についても述べます。確かに、主観と客観は一致することがないが、それでもみんなが共通了解することは可能だと。
では一体、どうやったら主観と客観が一致しないにも関わらず、共通了解を作り上げることができるのか?
それに答えを出したのが、フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)とエトムント・フッサール(1859-1938)です。
(引用元:wikipedia)
ニーチェは、「絶対的に正しい実際の世界」なんてものはそもそも存在しない!と宣言します。「本体論の解体」と言われています。(神は死んだという言葉も残しています。)
となると、共通了解が可能な世界の説明も存在しない?となりそうですが、そこに答えを出し切ったのが、フッサールです。
フッサールは、1つの方法論を発明しました。そして、それが「共通了解が可能な世界の説明」を可能にします。
その方法論が「現象学的還元」です。
現象学的還元とは?
多様な人が生きる世界で、「共通了解可能な世界の説明」を作る。この難題に対する1つの解決策が「現象学的還元」です。
「現象」学的還元の「現象」とは、「心の中に『像』が『現』れること」をさしています。
坐禅や瞑想をする際に、「何も考えないように…」と思っても、結局、何かしらが心の中に「現れてしまう」という経験はないでしょうか?
フッサールは、この「現れてしまう」という感覚を「明証性」として、難題に切り込んでいきます。
現象学的還元は、3つの段階で成り立っています。
1:客観が存在する、という暗黙の前提をいったんなしにする
2:すると全ての認識は、何ものかが存在するという確信とみなされる
3:この存在確信が、どのような条件で主観(意識)のうちで構成されるかについての、共通の構造と条件を取り出す
もう少し、詳しく見てみましょう。
(図7:直感的な、認識のイメージ<筆者作成>)
普通、人間は、客観的な正しい世界が存在すると考えています。そして、その客観的な世界をみて、りんごがあると思っています。これが多くの人が持っている「世界の説明」です。①:まず世界(りんご)が存在していて、②:それを自分が認識しているという順番です。
この前提を持っている限り、主観と客観は絶対に一致することなく、よって、みんなが納得できる「世界の説明」は成立しえません。
フッサールは、「現象学的還元」という方法の中で、これとは異なる「世界の説明」を展開します。それが上述の3つの段階のうちの1段階目です。
「1:客観が存在する、という暗黙の前提をいったんなしにする」
(図8:現象学的な、認識のイメージ<筆者作成>)
いったん客観的な世界が存在することを横に置いておいておきます。そうすると、一切のことは、自分の心(意識)の中で起こっていることとなります。そうすると2段階目に移ります。
「2:すると全ての認識は、何ものかが存在するという確信とみなされる」
すでに自分の外側に世界が存在するのではなく、自分が心の中で、世界があると確信しているだけである。と考えてみようとフッサールは言いました。
すると、①:まず自分の心の中に世界(りんご)の様々なイメージが浮かんでくる、②:世界(りんご)があると確信する。
このように、全ては自分の心の中で確信されることであると、認識を「客観的なものをみる」という考え方から「主観の中で起こっていること」という考え方に、引き戻して(還元して)みる。
それが、「現象学的『還元』」という考え方です。
これをすると、りんごにおいては様々な「確信の条件」が取り出されます。
・赤い
・成人の一般的な男性の拳より1回りくらい大きい
・球に近い形
・表面に小さな斑点がある
・ツヤツヤしている
・上部と下部に凹みがある
…など
こうした条件が心に浮かんだときに、私たちは「りんごがある確信」を持ちます。
この確信の特徴は何と言っても「疑いようのなさ」。「絶対にそうとしか考えられない」という感覚です。心の中に「浮かんでしまう」感覚です。
フッサールは、デカルトの考えた「明証性」を、心の中に浮かんでくる「疑えなさ」に見ることで、「疑えなさ」を根拠に、「世界の説明」ができるのではないかと考えました。
さらに、この「確信」はレベルアップすることができます。最初は、自分だけの確信。その確信の条件を友達と話し合って合意することができれば友達間での確信。さらに多くの人にそれを共有し、誰も疑うことができないとなれば、世界中の人の確信となります、
レベル1:主観的確信
レベル2:共同的確信
レベル3:普遍的確信
(図9:確信の審級性<筆者作成>)
このように、確信が起こる条件をみんなで共有し確かめることを通して、「この条件であればどんな人でも確実に〜を確信できる」というものに鍛え上げることができれば、みんなが納得できる「共通了解」を作ることができます。
つまり。
客観的な世界があるということをいったん保留する。
そうすると、「全ては確信である」ことになる。
この「確信」の条件を拾い集める。
それを共有し確かめ合う。
対話の中で磨かれることを通して、誰しもが納得する共通了解が導かれる。
このような流れで、「概念」や「原理」といった「確かめられる」ものを使って、「共通了解が可能な世界の説明」を作り上げることができます。
つまり、フッサールの「現象学的還元」の方法の発明により、世界は初めて、「共通了解が可能な世界の説明」にたどり着く道を発見したのです。
こうして、「世界では常に争いが起こる」という「世界の説明」は解体され、「みんなで争いが起こりづらい世界を作ることができる」という「世界の説明」に移ることができるようになりました。
…ん?でも、世界は実際には争いで溢れているじゃないか。
そう思った方も多いのではないでしょうか。
世界から争いは無くなるのか?
実際には、近代の哲学者たちの挑戦以前と比べると、私たちの生活は、かなり争いから解放されたものになっています。
近代以前は、暴力が娯楽として扱われている側面もありました。
こうした時代に比べれば、比較的争いの少ない世界になったと言えるかもしれませんが、依然として世界には争いが多い。
それは一体なぜか。
1つには、様々な哲学者たちが挑戦してきた、「共通了解が可能な世界の説明」としての「哲学」が十分には知られていないことが挙げられます。
私自身も哲学書を手に取ったはいいものの、あまりの難解さに読むのを諦めてばかりです。哲学の営みが、「厳密さ」という檻に閉じ込められている限り難解になるばかりで、多くの人の間でその「本質」が共有されることはありません。
個人的には、世界で言われている「対話」による問題解決の本質は、「現象学的還元」にあるのではないかと思います。
「対話」で行われるべきは、主張のぶつけ合いや正当性の主張ではありません。そこで行われるべきなのは、「なぜそう確信するに至ったのか?」や「確信に至るための条件は十分に共通了解が可能なところまで磨かれているのか」の検討です。
その人が持っている「疑えなさ」は一体どこから発生しているのか?その「確信の条件」はなんなのか?それは、自分にとっても「疑えなさ」であるのか。自分にとって「疑えなさ」と言えないのであれば、自分と相手では何が違うのか。
こうして、自分と相手の確信の成立条件を検討するうちに、相手の立場からみた時にどう感じるかが理解できたり、お互いの確信の条件を磨くことができたりするはずです。
つまり。
「客観的な世界」の「正しさ」について話し合うのではなく、あくまで「主観的な体験」の「確信の条件」について話し合う。その中でこそ、理解や共感、協働といったものが生まれてくる。
そんな対話の原理を、哲学は長い歴史の中で生み出してきています。
哲学が生まれたのは、古代ギリシャのミレトスという都市(ポリス)。
(引用元:Google map)
ミレトスは、ギリシャとその東に位置する隣国ペルシアのちょうど境目にある都市でした。様々な価値観が混じり合い、「違い」があったからこそ、「哲学」は生まれてきました。
人間は常に、様々な価値観を持つ人と共生してきました。古代から続く哲学の営みは、現代を生きる私たちまで繋がれてきたバトンリレーということができるかもしれません。現代という時代において私たちはどんな哲学を作り、生きていくのか。
それは、今を生きる私たちの挑戦です。
おわりに
ここまで、本を読みながら私が感じたり考えたりしたことをまとめてみました。ここは違うだろう、ここが気になった、ここはもっと深めれるなどあれば、一緒に話してみたいなあと思っています。
さて、実はまだ紹介していない哲学者が一人います。それが、ヘーゲル(1770-1831)です。彼は、「自由の相互承認」という考えを定式化しました。ヘーゲルは次のようなことを考えました。
人間は、何にも増して自由を求める。しかし、人が自分の自由だけを追い求めていくと、必ず自由が対立し、争いになる。そして、それは結果として自分の自由を狭めてしまう。お互いの自由を実現するには、自分の自由を認め、相手の自由を認めることが必要である。
ヘーゲルは、「法」や「ルール」はこの「自由の相互承認」を制度として実現化するものだと述べています。
そして、そんな「法」や「ルール」を作る近代国家の存在理由の本質は、「法」や「ルール」を使って、市民の「一般福祉」(=みんなの幸せ)を実現することであると言います。
ヘーゲルは、「自由の相互承認」「一般福祉」という「世界の説明」を通して、「いかに争いをなくすことができるか?」の問いへの哲学者たちの挑戦に一つ区切りをつけたと言えます。
ここまでを改めて概観すると、哲学者たちが作ってきた3つの原理から、多様な価値観を抱える人が共生していくことができる「自由な市民社会」の像が導かれます。
<原理1>
人々は不安があると「万人の万人に対する闘争」に陥る。(ホッブズ)
<原理2>
闘争状態からの解放は「社会契約」によって実現される。(ルソー)
<原理3>
「自由の相互承認」は、人々が自由を追求する基盤である。(ヘーゲル)
「哲学」は「共通了解が可能な世界の説明」を目指してきました。
その中で、原理を作り上げた「ホッブズ」「ルソー」「ヘーゲル」。
認識の謎を解き明かした「デカルト」「カント」「ニーチェ」「フッサール」。
こうした、哲学の歴史の上に立つことで、私たちはこれからの社会の中で、より多様な人と一緒に暮らしていくことができます。
普段「『自分らしさ』や『自分のやりたいこと』『いろんな時に湧き上がる感情』といった『個性』を大切にしたい。『個性』をまるっと自分で受容できれば、それだけで、人生は幸せに満ちている。」そんなことを思っていますが、こうした感覚を今持つことができるのは、哲学者たちが様々な「世界の説明」を生み出し、世界中の人の考えがアップデートされてきた、その歴史の先端に立たせてもらっているからなんだと思うと、私たちが「個性」を大切にできる環境にいることがいかに特別なことなのかを実感します。
私たちは、多くの過去の偉人たちに生かされている。
本を読むのは知識が得られるからではない。本を読んだ時に浮かび上がる様々な感動や感覚を味わいたいからなんだ。そんなことを感じさせてくれる読書体験でした。
十分に気をつけて読もうとしましたが、解釈、読み取りに間違いがある箇所があるかと思います。また、十分に本の内容を理解仕切れたかというと、まだまだ読み込みたい感じがしています。あと、別の哲学書も読んでみたい。竹田青嗣(たけだせいじ)さんが書いた実際の文章に触れてみていただきたいので、ぜひ読んでみてください。めちゃくちゃ面白かったです。
最後に、竹田青嗣の哲学の未来への思いがこもった、この本の一節を引用して、締めくくりたいと思います。
現在の資本主義が克服されるべきものであることについて、大きな合意が形成されつつある。そこにはわれわれの時代の希望がある。
哲学の再生は、この希望を新しい人間社会の原理へと鍛えてゆくための、不可欠の条件である。
この課題を担うのはおそらく古い世代の哲学者や学者たちではない。
普遍認識の探究としての哲学の原理と本義を理解し、これを再生しようとする志をもつ真に新しい哲学世代だけが、この重要な課題を引き受けるに違いない。
(引用元:哲学とは何か p. 280)
やはり、志。
自分もこの哲学者たちの挑戦の末席に加わっていきたいと思いました。
文責:向敦史(むかいあつし)
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