見出し画像

【随筆】【文学】デクノボー考(三)  「虔十公園林」を巡って

まさか、でも虔十だ。あの宝石のような物語の主人公が目の前にいる。

雨の中の青い藪を見てはよろこんで目をパチパチさせ
青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を見つけてはねあがって手をたたいてみんなに知らせました

大好きでそらんじてもいた物語の主人公に出会えた。

「おらおらでひとりいぐも」若竹千佐子

 若竹千佐子の芥川賞受賞作「おらおらでひとりいぐも」(2017年)で、主人公桃子さんは後に夫となる周造との出会いを、実に印象的に述べている。タイトルからして宮沢賢治へのオマージュである同作において、直接に賢治作品に言及しているのはこの箇所だけだったと記憶しているが、それだけに、引用の巧みさと相まって、効果抜群といえるであろう。実際、童話「虔十公園林」はきらきらと輝くほど美しい物語だ。

 主人公の虔十は軽い知的障害のある少年。現在ならLDとかADHDとかレッテルを貼られるのだろうか。他の子どもたちからはからかいの対象となっているが、自然の中で喜びを感じ、いつでも朗らかに笑っている。ある時、虔十は親に杉苗700本を買ってもらい、家の裏手の痩せた野原に植える。難しい植樹条件や、隣接する畑の持ち主の平二の嫌がらせ、周囲の嘲笑などの困難にもめげず、必死に、懸命に林を育て、やがて杉林は子どもたちの格好の遊び場となる。ある年、虔十も平二もチブスで死ぬ。その二十年後、年を経て近代化が進んだ村に、アメリカの大学で教授となった村出身の若い博士が帰郷し、昔と変わらぬ虔十の杉林に心を打たれ、公園として保存するよう進言する。そして「虔十公園林」と彫った立派な石碑が建つ——。

全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂い、夏のすずしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本当のさいわいが何だかを教えるか数えられませんでした。

虔十公園林

 「本当のさいわい」という賢治作品の核心ともいえるキーワード、Kenji→Kenjüという主人公の名前の設定から、賢治の理想とする生き方、人間像が込められた作品といえるだろう。この童話は賢治の死後に発表されたが、生前はその創作活動や社会実践が世に容れられることがなく、没後、急速にそれらの真価が認められることとなった賢治自身の、願望としての自己像ともいえるかもしれない。

 谷川徹三まで遡るのではないかと思うが、この作品の虔十の延長上に、「雨ニモマケズ」の「デクノボー」をとらえる見方は古くからあるようだ。世間の無理解にさらされ、あらゆる奮闘努力が無益にみえようとも、無私で無償の献身を一途に続けるという主題はもちろんだが、虔十と「デクノボー」には、より本質的な存在のあり方、そのたたずまいといったものにも重なるものがあるように思う。

いつも笑って林の中や畑の間をゆっくり歩いて

虔十公園林

決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル

雨ニモマケズ

 生命の自然な流露としての、常住で無償の笑い——。

 そもそも、前回取り上げた、「デクノボー」の<原像>としての法華経の「常不軽菩薩品第二十」とも、「虔十公園林」の物語はよく似た構造を持っている。すなわち、人々から蔑まれ、石や瓦、杖で迫害されても、「あなた方を尊敬する。あなた方は必ずや成仏する」と拝み続け、最後は釈尊の過去世だったことが明らかになる常不軽菩薩と、村民の嘲りや妨害にも挫けず、ひたすらに木を植え、育て、やはり最後に、洋行帰りの博士という権威によって、正当にその意義を評価され、共同体に顕彰される虔十。

 あるいは「虔十公園林」や「よだかの星」、「気のいい火山弾」などの童話群を「デクノボー」を描く一つの作品系列としてとらえ、それらとアンデルセン童話、特に「みにくいアヒルの子」との影響関係をみる研究もあるようだ。なるほど、いじめられている醜いよだかが最後は輝く星となる物語は、「みにくいアヒルの子」となかんずくよく似ている。

あゝ全くたれが賢くたれが賢くないかはわかりません。たゞどこまでも十力の作用は不思議です。

虔十公園林

 愚と賢、醜と美、弱と強の弁証法、ダイナミックな価値転換――。

 ただこうした、古代インドの経典や近代ヨーロッパの文学との表層的な直接の影響関係というよりも、もっと大きな、汎人類的ともいうべき、深層における「普遍的な類型性」の存在を仮定出来ないだろうか。すなわち「デクノボー」の<元型>といったものである。
 私の狭い関心領域からだけでも、次のようなことが頭に浮かぶ。ロシアの精神世界に深く根を下ろしたユロージヴィ(聖愚者)のイメージ、とりわけドストエフスキーの作品世界、とりわけ「本当に美しい人」、「白痴」のムイシュキン公爵の形象。あるいは、遠藤周作が「イエスの生涯」において、史的イエス像を追求せんとした時、なぜ「デクノボーとしてのナザレのイエス」にならざるを得なかったのか――。博識な方だったらいくらでも挙げることが出来るのではないか。
 吉本隆明は「雨ニモマケズ」の受容について、次のように述べている。「近代主義者の反撥と、言葉の<無償>なら大事にするが、行為の<無償>には関心を払わない超近代主義者の反撥によって眠らされてしまった」。理性は躓こう。賢治が生きた近代であれ、「冷笑」が支配するポストモダンの現代であれ、「デクノボー精神」なるものを称揚し、ある種の「理想的人間像」として掲げるのは無理があろう。つぶれるか、つぶされるかである。賢治がそうであったように。ただ一つの思考実験として、「本当に美しい人」を思い描いてみた場合、虔十であったり、「デクノボー」であったり、そうした「元型的人間像」への憧憬が泉のように、多くの人の胸中に湧き上がってくることもまた否定出来ないのではなかろうか。

 前回へ

いいなと思ったら応援しよう!

橋本 健史
公開中の「林檎の味」を含む「カオルとカオリ」という連作小説をセルフ出版(ペーパーバック、電子書籍)しました。心に適うようでしたら、購入をご検討いただけますと幸いです。