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書評:論理的思考は複数あることを示すスリリングで「哲学」的な論考ーー渡邉雅子『論理的思考とは何か』

渡邉雅子『論理的思考とは何か』は、優れた哲学書である。哲学についての言及があるからではない。留学した時の強烈な異文化体験が、著者に、そもそも知的で論理的な文章とは何か、根底から問い直すことを強いているからである。

その構成は大きく分けて2つの部分からなる。ひとつは論理的思考が、西洋においても「論理学、レトリック、科学、哲学」の4つの「基本パターン」が多様にあるとする前半部分である。もうひとつは、作文教育の方法と目的に着目することで、複数の論理的思考を地域ごとに成り立たせている「文化的側面」があるとする後半部分である。

前半部分は、論理学における演繹や科学におけるアブダクションなどについて語られており、いろいろな哲学書の復習といった内容だった。

渡邉雅子『論理的思考とは何か』p.4-5

それゆえ、個人的には、比較社会学的・比較教育学的な考察がなされている後半部分の方が新鮮で興味深かった。そこでは各文化毎の「論理の展開の違い」が、見通しよく4つに類型化されている。すなわち、アメリカの経済的なエッセイ、フランスの政治的なディセルタシオン、イランの法技術的なエンシャー、日本の社会的(共感的)な感想文という4つの文章の書き方である。実際には地域ごとに、論理的思考かどうかの尺度が、つまり作文教育において重視される達成目標と評価基準が、多様であることがわかる。

同上 p.58
同上 p.65

別言すれば、各文化圏が要求している文章構成の型(フォーマット)に合致しない作文は、なかなか評価されない。たとえば、日本では優れているとみなされる感想文の書き方が、自分自身の主張をまず最初に直接示そうとするアメリカのエッセイとしては、著しく評価が低かったり評価不能となったりする。こうした失敗談は著者自身のアメリカ留学中の体験でもある。

筆者が論理的であること、そして論理的思考が「ひとつではないこと」に気づいたのは、アメリカの大学に留学して、エッセイと呼ばれる小論文を提出した時だった。「評価不能」と赤ペンで書かれ突き返された時の衝撃は今でも忘れられない。それ以上に衝撃的だったのは(…)いったんアメリカ式エッセイの構造を知って書き直すと、評価が三段跳びで良くなったことである。(…)それは論文の構造に導かれた論理と思考法の日米の違いという、まさに「見えない文化衝突」の体験だった。

同上 p.ⅱ 

日米の異文化をくぐり抜けた経験が研究の出発点にあるためだろう。この本からは単なる類型化のための類型化ではなく、文化の違いを痛感した著者の差し迫った問題意識が垣間見える。そして、異なる社会への移動がもたらす強烈な体験は、自分の生まれ育った環境について反省する好機でもある。読者もまた、著者のように、つい自明視しがちな文章の書き方と知性のつながりを、日本を含むさまざまな地域の文章教育という観点から根底から揺さぶられることだろう。

論理的思考とみなされる文章作法は、一つの普遍的な様式(スタイル)があるわけではなく、文化毎に特色を持つということをこの著書は示している。その多様なあり方を俯瞰的に比較しようとする点において、この本は、まさしく一級の哲学書であるといってよい。なぜなら哲学とは、「それぞれの専門領域の内に収まった知識を俯瞰的に」見て、「議論を行うとき『何について考えているのか、議論しているのか』、その前提を明らかに」しようとするものだからである(同上 p.37)。それは、多元的な論理的思考を状況に応じて選択したり、多様な角度から他者を理解することを可能にしてくれる。

とはいえ、なぜそのように各地域で違った文化が形成されてきたのか、歴史的説明は最小限度に抑えられている。あとがきによれば著者の他の本には、そうした各地域の作文教育の特殊性の起源について、歴史的に考察されているとのことらしい。ぜひ手にとって読みたくなった。


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