あぁ テトラポット登って CHILLしてる。
aikoの『ボーイフレンド』って、いい曲ですよね。何度聞いてもワクワクして、何かが始まる気がします。しかし、大学時代男友達と二人で名古屋を旅行していた時に、夜中ビジネスホテルのラジオからこの曲が流れた途端「俺たち、ふたりで一体なにしてるんやろうなぁ…」と天井を見上げた事を思い出さずにはいられません。非常にいい思い出です。今日は、そんなどうでもいい事を気楽に考えるようで考えない、そんな記事です。
Netflixって疲れるよな。
Netflix、Amazonプライム、Hulu...世の中にサブスクリプションが溢れています。TSUTAYAでDVDを借りていた時代に比べると、物理的にも、経済的にも圧倒的に楽になりました。
なのに何故私はNetflixに疲れているのでしょう。
その答えは、簡単です。「自由」は、疲れるからです。日本人はテレビに慣れきっています。テレビ業界が衰退して、YouTubeやNetflix全盛の時代がこの先来るかも知れませんが、現状慣れているのはやはりテレビです。
テレビは、電源をつければ何かしら番組がやっています。その中から気に入った番組があれば、毎週楽しみにその曜日を待って、その時間になったらテレビをつけます。
そういう意味では、好きな番組を見るという選択の自由はもちろんありますが、ただなんとなくテレビを付けていると言うこともしばしばあったように思います。
一方で、Netflixに何となくはあまりありません。自分の意思で会員登録をして、自分の意思で見たい映画やドラマを選択して、自分のペースでそれを見ることになります。
この選択の自由、自分の意思で選択する事が、大きな労力を伴うことに気づいてしまいました。この自由から逃げたい…とさえ思っています。
フロムの『自由からの逃走』ですね。
自由というものは本来はそれが与えられることに対しての孤独や責任を
受け止めるということが求められるわけであり、
その覚悟を持った上で自由を希求して得た者によって構成される社会こそが望ましい社会の形態といえるわけである。(Wikipediaより)
私は、自由を履き違えていました。こんなにも自由に責任が伴うとは思っていませんでした。しかし、テレビに慣れていたように、いつかこういった選択の自由にも慣れる日が来るのでしょうか。
また、「何とか元を取ってやる!」という貧乏根性もこれに追い討ちをかけています。以前の記事にも書きましたが、見ないのもまた選択であり自由です。そう自分に言い聞かせるのです。
自由って疲れるよな。でも自由になりたいんだよな。
サブスクに「自由」の本当の意味を問われている気がします。私はこの「自由」から逃げずに、孤独や責任を受け止めて、「本当の自由」を手に入れる事が出来るのでしょうか。
数ヶ月後、Netflixを退会していたらすみません。でも、辞めるのもまた「自由」なんですよね。そう思うと、気楽になってきました。
あぁ テトラポット登って CHILLしたい…
本日も気楽にいきましょう。では、また。