気づかぬうちに「自由」は奪われている
「自由に対する感度」というのがあると思っている。その感度が高いから良い人でもなければ低いから悪い人、というわけでもない。例えば監視カメラだらけの町にいて「これで犯罪率が下がる、安心だ」と考えるか「いつでもどこでも見られているのはきもい、自由が奪われる」と考えるか。どちらも一面の真実だろうが「安心だ」としか考えないなら、「自由が奪われていく事」には鈍感にならざるを得ない。
例えば一昔前の子供には自分たちしか知らない「秘密基地」「秘密の場所」なんてのもよくあった。もちろん「危険」もあったがある意味それが「自由」を担保してもいた。でも今はどこでもカメラで見られ、どこでもストリートビューで晒され、GPSまで仕込まれ、今の子供は明らかに昔より「自由」を失っている。自由を奪われていても「便利さ」や「安心感」によって、それに対し鈍感になっている。
ワクチンとかマイナンバーとか電子マネーも同じような話で、それらは一見すると「便利さ」とか「安心感」を匂わせるから、多くの人が特に抵抗なくそこに乗っかっていくわけだが、実際のとこは健康状態やら既往歴やら購買履歴やらを全部権力やグローバル企業に管理されて、気づかぬうちに「自由」は奪われた状態になっている。
どこでもカメラだらけだったり、どんな病気でもワクチンワクチンなのは、全ての「不安」を管理してこの世から「不安」を無くそうという、いわば「ユートピア」を求めた帰結だろうが、それは裏を返せば全て見られ管理され、「自由」を奪われた「ディストピア」そのものでもある。「光と闇は紙一重」で、ディストピアはユートピアの対極にあるのではなく、実はユートピアを求めた先にこそ待っている。
そしてよくシャバに出た元受刑者が「牢獄の方が安心」みたいに言うがある意味真実で、管理社会の檻の中には確かにある種の「安心感」がある。「便利さ」もあるから牢獄の中にいることにすら気づきにくく、実は「自由が奪われてる」などとは思いもよらない。「牢獄の安心」か「危険な自由」か。「自由」は至上の価値のごとく言われるが、「牢獄の安心」を取る人が多いなら管理社会化の流れはもう止められない。