法治国家だから政治家の「人」は信用しない
政治家というのを基本的に信用しないようにしている。彼らは選挙に勝つこと、権力を握ることが目的で、そのためなら平然と詭弁を弄し国民を騙し、いざ権力を握るとそれ以前とは意見を180度変えることだってザラにある。何度も何度も見てきた光景だ。選挙はいつも糞を食うか小便を飲むかの選択でもある。どんな善き人でも権力を握れば腐敗してしまうわけで、だからこそ権力の濫用を防ぐために憲法がある。
いや、そんな事はない、あの人だけは信用できる、といっても政治において「人」を信用するのがそもそも危険と言える。例えば安倍晋三というのは「人」そのものが信用されていて、露骨に公文書偽造をやろうが強引な憲法解釈で強引に安保法制を通そうが、「安倍ちゃんのやる事なら正しいはず」と、大してそれが政権のダメージにならなかった。
法に反してようが「あの人なら良い」としてしまうのはもはや法治国家とは呼べない、専制独裁国家と変わらぬ人治国家になる。人が法の上に立つのでなく、法が人の上に立てばこそ、誰が権力の座につこうとも等しく権力を抑制することができ、独裁者の台頭を防ぐこともできる。
なので、政治家が自身の票のため、保身のために国民を利用するのなら、国民の側も政治家を利用してやるのが良いと思っている。例えば「薬害」という問題はそもそも大して票に結びつかず、政治家にとっては全然興味のない話ではある。しかしもし「薬害」の実態を広め、それを知る人が増えれば、そこで初めて「薬害」は票になる話になり、票になるならと政治家もやっと関心を持つようになる。
政治家が動くのを期待するのでなく、国民の側が政治家を利用して動かす。馴れ合わず、利用する、利用されるの緊張関係を保つくらいの方が、権力の濫用を抑えるための均衡が保たれる。