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活動家の矛盾。

 ちょうど今から半世紀前、当時小学6年生のとき、わたしは自身の障害について知った。
 中学進学を間近に控えてのことだった。

 母は言った。
「ナオちゃんは普通より知能が高いのだから、人一倍頑張れば、普通学級でもやっていける」
と。

 それでわたしは普通学級の中で必死に頑張った。

 でも、駄目だった。どんなに頑張っても無理だった。
 高校のときに挫折した。
 学校は、自分の力を超えていた。

 活動家が理念や理想論をのたまうかたわら、障害当事者であるわたしは、その理想の通りであろうとした。
 今日では通常学級と呼ばれるそれは、少なくともわたしにとっては凄惨な場所だった。

 後にわたしは、その体験記を2冊の手記に記録した。
 でもその声は、不登校推進派にも、インクルージョン推進派にも届かなかった。
(発達障害の関係者には届いたけど。)
 いわばそれらの手記は、彼らにとって都合の悪い証言で山盛りである。
 そういうことなのか、かれらは、そうした声を今に至るまでスルーしている。

 前者は「学校に頼らないで自分の力で!」と主張する。
 そもそも、何の支援も得られないなかで、自分の力で学校でやっていこうとしたわたしにとって、学校に「頼る」という発想が有り得ないことなのだが。むしろ、学校こそ、自分の力が極限まで試される(いじめ、友達作りなど)場所だと思う。

 その一方で、後者は、「障害者を通常学級に!」と叫んでいるし、なんと国連からも、わが国の特別支援教育について勧告をされてしまった。(それって内政干渉でしょ。)

 しかしそうしたインクルージョン推進派は、(かつて)普通学級・通常学級・普通科高校に通って挫折した障害当事者の声に、一度でも耳を傾けたことがあるのか?
 かれらは、普通学級に行きたい!という障害当事者の声は声高に取り上げるのだが、いっぽうで、実際に普通学級に行って実害を被った、あるいは挫折した障害当事者の声は排除する。

「特別支援教育は通常学級からの子どもの排除である」、という声がある。
 しかし、その子その子に見合った細やかで手厚い教育を受けさせることの、いったいどこが“排除”なのか。

 もし、かつてのわたしみたいな子どもが通常学級にいたら、途中でついていけなくなって、教育を受ける機会そのものから排除されてしまう。
 それも、みずから学校に行けなくなる、ということによって。

 しかも、わたしの経験で言うと、普通学級・普通科高校で頑張った障害当事者は、不登校支援者からも排除される。(それも3冊目の手記『自閉女(ジヘジョ)の冒険』に書いた。)

 インクルージョン推進派は、頑張って普通学級に通った(そして挫折した)障害当事者が、不登校推進派から弾圧され、馬鹿にされ、鼻であしらわれているという厳しい現実について、どう捉えているのだろうか?

 そもそも、障害や病気を持ちながら普通学級・普通科高校に通った人のナラティブが、1985年あたりを境に、不登校推進派の「登校拒否は病気ではない」という声と引き換えに、パージされてきた現実を彼らは知っているのだろうか?

 今のところ、インクルージョン推進派は、不登校推進派とも仲良しのようだが、障害当事者を排除する(した)、かような不登校支援団体のことは批判しないのか?
 それ以前に、通常学級にこだわる支援者・活動家たちが、不登校支援者・活動家たちとつるむというのは、矛盾では?

 不思議だ。謎だ。
 いまだにわたしにはその理屈がわからない。◆

(2024.9.22)

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