「書きあぐねている人のための小説入門」でnote入門
ある本との出会いが、私の小説への見方を一新した。
それまで40年以上もの間、小説を架空の物語、登場人物や出来事を編み出すものだと思っていたが。
この本によると、どうやら違うらしい。
小説は、自分自身を表現し、発見するための道具であると。
突然、文字を紡ぐ行為が、自分自身と深く対話する旅へと変わった。
今回は、その驚きの発見と、小説やnoteを通じて自己表現の深化を追求するプロセスについて、共有したいと思います。
書きあぐねている人のための小説入門
すごい熱いこと言うなあ。。。
小説は、外から眺めて客観的に書くんじゃない。
とことん、自分の中に分け入って、中から出てくるものを書くんだー!(私の解釈)
小説への愛に溢れてる。
小説は、架空の登場人物、架空の世界、架空のストーリーで面白い話を創造するもの。
と思っていたが、どうやら違うらしい。
もっと、自分の人生や出会いを使って、身体と感情を感じて、内面深く掘って、自分にしか書けないような固有の運動で書くもの。
なぜそこまでするのか?
小説やストーリーには、型というのがある。
起承転結や神話の形式(ヒーローズジャーニー)のような。
それになぞれば、AIでもそれらしい小説は作ってくれるだろう。
でも、”自分”が書く意味は何だろう?
すでにたくさんの文章が世の中にある中で。
ただ文章で稼ぐのが目的ならそれでもいいかもしれない。
あるいはあくまで練習と位置付ければ。
やっぱり、書いてるプロセス自体に意味があって、楽しかったり苦しかったり、そして書いた後に自分らしいものができたときの達成感。
そのために書いている。
この文章自体も、だいぶ苦しみながら消したり追記したり。。。
ぜんぜん書けん。意味わからんかもと、試行錯誤している。
「書きあぐねている人のためのnote入門」にしてみる
そして、急にnoteの話に置き換える。
”小説”の部分を"note”に読み替えるとどうだろう?
・noteには、社会化されていない部分がかかせない
・noteは、その人なりの身体性や経験が反映されている
・noteは、テクニックによって小説になるのではない
・noterは、だから、noteを使って自分を高めなければならない。
・哲学も自然科学も小説もnoteも「誰も見たことがないもの」を描く
・noteが光源となって日常を照らす
・noteには”note固有の運動”がある。それ固有の運動を持ったときに、いま書かれているものが、”note”となる。
・noteとは書きながら自分自身が成長するもの
・頭を”noteモード”にしない。noteは、ふだん自分が使っている言葉で書くべきもの
・noteには「笑い」が必要だ
すごかー!熱かー!
熱いnoteになりそうだ!笑
これからは、生成AIで大量の文章が書けるんやから、
自分独自の発信やLLMも書けない未開文(秘境文)は、身体+方言だ!
AIにも書けない美しさ♪
ゲシュタルトも身体と言葉で、セラピーをするのが根幹で。
クライアントの抽象化された言葉からどう具体的な身体感覚を呼び起こすか。
あなたは、書くことに苦しんだり、ワクワクしたり、これが自分の文章だ!って感じで書いてますか?
noteでも、
どこかで聞いたような最大公約数(情報・知識)を書くのではなく、
私という個人的な身体と内面が感じるままに書く。
悟空じゃないけど、なんだかワクワクすっぞ!
noteにどこまで情熱を注げるか分からないけど
それが小説なら書いてみたい!
あなたは、今、ここまでの文章を読みながら
あるいは書きながら身体で何を感じていますか?
いや、そんなに暑苦しい書き方はいやだ。
という方はこちらの書き方をご覧ください。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
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