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元禄赤穂事件を斬る!


果たして「浪士」か「義士」か?

1つの歴史的事件を、感情というフィルターを通して見ると、全く違う景色が見えてくる。一度でも歴史を学問として学んだ身としては、歴史的事件をなるべく俯瞰して見なければと思う一方で、人間である以上、どうしてもバイアスが働いてしまいます。松の廊下で起きたあの有名な刃傷事件も、感情を通して見ると「忠臣蔵」になります。吉良上野介を殺害した武士たちは、「赤穂浪士」ではなく「赤穂義士」となります。

今回のエッセーでは、元禄赤穂事件が忠臣蔵として日本人の心に刻まれるようになった要因は一体何だったのか?例によって私の薄っぺらい知識を使って読み解いてみたいと思います。少々長いですが、歴史ファンの皆様、しばしお付き合いください。

高家って何?

そもそも、吉良上野介義央とはとんな立場の人だったんでしょう?ご存じのように浅野内匠頭長矩勅使饗応役、上野介はその指南役でした。幕府は朝廷へ年賀を祝う使者を毎年送っていまして、朝廷はその返礼の使者を派遣しておりました。二人はその返礼使者を饗応する役割でした。上野介は高家肝煎(上位の高家)という身分でしたので、饗応の責任者だったんです。

高家はザックリ言うと、由緒正しきメジャーな血筋を持つ人たちです。家康は没落したかつての権力者たちを侍らせることで、悦に入っていたのかも知れません。家康は名族コレクターだったんでしょうか?ちなみに、吉良家は室町足利将軍家に連なる血統です。こういう人たちは、没落したとはいえ京都との関係が深いので、何かと面倒な朝廷とのやり取りに都合の良い存在でした。家康が旧権力者の血筋を「高家」として採用したのは、そんな事情もありました。

余談になりますが、あの有名な今川義元の息子さんである氏真も高家として採用されています。この人は家康が今川家から離反した際、彼の家族を殺しております。にもかかわらず、家康は旧怨に左右されることなく氏真を保護したのです。家康の懐の深さを感じます。氏真は最初、小さいながらも大名として復活しますが、統治に失敗してクビになります。その時、
「実は私にはこんな特技があるんです」
といわんばかりに、雅な技をあれこれ幕府に売り込んだそうです。芸は身を助くですね。氏真のバイタリティには誠に頭が下がります。家康はリアリストでしたから、朝廷とのパイプ役として氏真を高家として採用したわけです。家康は信長や秀吉に比べるとかなり地味ですが、政治的なセンスは抜群だったんですね。

一方の浅野内匠頭は?

内匠頭が当主を務める赤穂藩は。広島浅野家の分家です。浅野家は秀吉の縁者ですね。赤穂は五万三千石の小さな藩でした。小藩ではありますが、塩田開発による特色ある藩運営をしていました。研究者によっては、この塩田開発が、吉良家との軋轢を生む原因の一つと考える向きもあります。彼は若くして当主となりましたので、経験不足な面があったと思います。有名な大野九郎兵衛大石内蔵助といった、才知豊かな閣僚たちの補佐を受けながら頑張っていたことでしょう。赤穂浪士たちが命を懸けてまで討ち入りを果たしたのは、主君への熱い想いがあったればこそです。若い殿様を、彼らは普段から愛おしく見ていたのでしょう。両者の微笑ましい関係性を想像せずにはいられません。この辺りの事情も、もしかすると日本人にエモく映ったのかも知れません。

二人の間に一体何が?

そんな二人が運悪く出会ってしまいます。貴女に出会わなければ、私の人生は平穏であったろうに…。なんてのは恋愛ドラマによくありますが、出会ってはいけない二人が運命を重ねてしまう、全く不幸としか言いようがありません。

実のところ、内匠頭が饗応役を受けたのは今回が二回目でした。彼は十七歳の折に一度経験しています。今回は二十年後のリトライとなったわけです。浅野家側の資料を見ると、内匠頭は饗応役をかなり嫌がっていたそうです。役をこなすにはとにかく“金”がかかる。この頃は、幕府の役職に関する必要経費は自腹負担が基本原則でした。(吉宗の時に若干修正されます)指南役への付け届け(謝金)は無論のこと、必要な物品の調達一切です。内匠頭は塩田収入があったとはいえ、五万石程度の大名でしたからその出費はバカになりません。内匠頭が上野介への謝金を渋ったという話もありますが、それを思うと仕方のない面もあります。財布の口を堅く閉める弟子を快く思わぬ師匠。上野介が内匠頭に何かと辛くあたった可能性も否定できませんね。

一方、上野介は自分の持つ特技(饗応のノウハウ)を提供するのですから、それ相応の対価を望みます。後世の私たちは、付け届けを賄賂と見なし軽蔑しますが、当時の慣例や実情を考慮すると、必要不可欠なシステムだったのです。背景を知ってから歴史を見る余裕もあって良いでしょうね。

上野介は高家肝煎として、様々な人々と交流しなければなりません。当然その交際費は自腹です。上野介は本領と幕府からの手当てを合わせても六千石程度でした。領地を持っているとはいっても大名ではないので、位は高くても実入りは少なかったのです。位が高いですから、それに伴って雅な人たちとの交流も多いのです。そんな人たちには多めの付け届けをしたでしょうから、お金がいくらあっても足らなかったに違いありません。上野介は息子が当主を務める米沢上杉家に、度重なるおねだりを要求しています。上杉家にとってさぞや煙たい存在だったでしょう。単に贅沢好きだったという説もりますが、やむを得ない面も否定出来ません。

数年間、私は人生経験豊富なシルバー世代の方と職場を共にしたことがあります。彼は適切に後輩を指導しているつもりでも、私にはパワハラと映る。そんなことは誰でも経験していることでしょう。上司に相談しても、
「向こうにはそういう認識がないんだよね」
と、まともに取り合ってもらえない。いわゆる見解の相違というヤツです。〇〇ハラ問題がこの国から根絶されないと思うのは、一人私だけではないでしょう。まして当時は得物を差して世の中を闊歩している物騒な時代。推して知るべしですね。実際、二人の供述を読むとそんな感じです。浅野内匠頭の言い分です。

私の遺恨これあり、一己の宿意を以て、前後忘却つかまつり、討ち果たすべく存じ候て刃傷に及び申し候

野口武彦著「忠臣蔵―赤穂事件・史実の肉声」より

「何かと恨みに思うことがあり、前後の詳細は忘れましたが、殺害しようと思って刀を抜きました」
一方の上野介は、

「かねて意趣を持たれる覚えはあるか」という質問に対して、「かつてそんな覚えはない」と答えるほかはない。覚えがあるといったら、自分の落ち度を認めることになる。(中略)事実として、思い当たるふしは何もなかっただろう。

同書より

気になる事実

ここで気になる事実を少々。当日、上野介に切りつけた内匠頭を取り押さえた梶川与惣兵衛に関するものです。

与惣兵衛が吉良上野介と廊下で立ち話をする少し前、浅野内匠頭と用談したと明白に記している。そのとき、与惣兵衛は内匠頭に何の異常も感じていない

同書より

うむ、これはかなり重要な事実ですね。事件の直前、内匠頭は特段変わった様子(追い詰められたような?)は無かったというのです。しかしその後、上野介の顔を見るなり内匠頭は逆上し切りつけたのです。まさに「突発的犯行」ですね。それまで感情が穏やかだった人が、相手を見るなりトラウマが蘇るのか、突然感情が変わる。この辺から、内匠頭が何らかの精神疾患を患っていたのではないか?と推測する向きもあるわけです。

一般的に内匠頭は、
「此の間の遺恨覚えたるか」
と言って切りつけたとされていますが、実際は何やら要領を得ないことを叫んでいたという証言もあります。何かの遺恨はあったのかも知れませんが、上野介を見る前は冷静だった内匠頭が、上野介の顔を見た瞬間にスイッチが入ってしまった。そんなところでしょうか?それが精神疾患の影響なのかどうか、私には分かりません。

インフレのせい?

神戸大学名誉教授であった野口武彦は、著作の中で実に興味深い指摘をしています。それは内匠頭が務めた二度の饗応時における「物価」の違いです。内匠頭が初めて務めた天和三年(1683)と、事件の起きた元禄十四年(1701)では江戸の物価はまるで違っていたというのです。これは幕府が貨幣の改鋳を行ったことによるようです。簡単に言うと、小判に含まれる金の含有量を減らすのです。減らした分を幕府が「懐」に入れるわけです。姑息ですね。どこかの国の裏金問題とそっくり。やはり為政者の思考は時代の変化は関係ないんですね。そんなことをすれば当然、お金の価値が下がり、物価は上がります。それに元禄時代は文化的にも成熟しておりますし、江戸は火災による都市計画の見直し超過密状態。人がたくさん溢れて、文化に金をかける。物も売れる。まさに元禄バブルとでもいえば良いでしょうか。

過去の経験がマイナスに働くこともあります。下手に経験しているだけに、人はそれに頼りがちになります。しかしシチュエーションはその時折で変わりますので、必ずしも過去の経験が活きるとは限りません。逆に働く場合もあります。内匠頭が前回の経験をもとに用意した資金では、役をこなすに到底足りない可能性はあるでしょう。上野介からすると、
「ちゃんとリサーチして金を持って来いよ」
だったでしょうね。しかも自分への付け届けも満足のいく額ではない。意識はしなかったでしょうが、内匠頭にあれこれと圧をかけた可能性も考えられますね。このように元禄赤穂事件を経済の面から見るというのは、中々面白い視点だと思います。でも考えてみたら当たり前ですよね。我々だってお金で物を買って暮らしています。内匠頭だって上野介だって同じです。時の経済の影響を受けずにはいられません。現在世界が激しく混乱しているのは、世界各国を襲うインフレの影響だとも考えられそうです。経済的余裕の無さが、そのまま人々の心の有様を表しているように感じます。信長や秀吉の事績を考える時も、こうした姿勢は大切だと思いますね。

幕府の塩対応

幕府は二人の詮議を早々に打ち切り、内匠頭には即日切腹、無抵抗と判断された上野介にはお咎めなしという沙汰を下します。小藩とはいえ、大名を一つ取り潰す可能性もあるのですから、幕府はもう少し時間をかけて丁寧に事態の把握に努めるべきでした。上野介からも、何らか自責の念を引き出せた可能性もあります。そうなれば赤穂の侍たちが望んだ両成敗という結論もあったかも知れません。ところが綱吉は即日決済したのです。いくら将軍の裁定とはいえ、いささか拙速に過ぎました。赤穂の侍たちが、この点に不満を募らせたのは間違いないと思います。ではどうして綱吉は即日処分を下したのでしょうか?実はそこには綱吉の「個人的な事情」がありました。

綱吉の宿願

元禄十四年の勅使饗応は、綱吉にとって「特別な意味」があったのです。ご存じの通り、綱吉は大変なマザコンでした。母である桂昌院は、元々八百屋の娘です。それがたまたま大奥に入ったことで、家光の手がつき綱吉が誕生します。果ては幸運が重なり将軍にまで。ですから綱吉が過度な儒教かぶれとはいえ、母には孝心以上の気持ちがあったでしょう。八百屋出身という母の汚名をそそぐため?彼は従一位の位を母に授けるよう、かねてから朝廷に要求していたのです。あの有名な高台院と同じ位ですね。綱吉としては欲しくて欲しくてたまらない羨望の官位でした。
「これでママも陰口叩かれずに済む」
と思っていたのかも知れません。朝廷としては、八百屋の娘を叙任することにかなりの抵抗はあったでしょうし、高台院のような功績があるわけでもない。将軍の母という理由だけでそんな高位は無理でしょうと。さりとて幕府の権威が揺らいでもいないこの時代に、将軍からの要望を跳ね除ける力はありません。晴れて刃傷事件の翌年、彼女は位を賜ることになります。事件のあった元禄十四年の勅使饗応は、そのネゴシエーションのために重要な機会だったわけです。最高の饗応でなければならない。ところが最悪な事件が起きてしまった…。

綱吉からすれば、その大切な儀式を「血」で汚されたのです。怒りが収まらなかったことでしょう。公家はとかく「穢れ」を嫌います。事件によって下手をすると叙任が取り消される可能性も考えられます。綱吉の立場から考えると、とんでもないことを内匠頭はやらかしてしまったのです。将軍の怒りの程が即日切腹という結果に見てとることが出来ますね。綱吉も幕閣も、これで万事OK上手くいくと胸をなでおろしたことでしょう。ところがそうは問屋が卸さなかったのです。

民意と幕府の反応

残念ながら、討ち入りのディテールをお話しすることは、このエッセーの目的ではありませんので、肝心の部分ではありますが省略させて頂きます。その代わり、討ち入りを知った庶民がどう思っていたのか、幕府は何を考えて浪士たちを処分するに至ったのか、その辺の事情をお話ししたいと思います。

赤穂浪士一行は、ご存じのように上野介の首を主君に捧げるべく、墓のある泉岳寺へと向かいます。その時の泉岳寺の様子はこんな感じでした。

当日の泉岳寺は大混雑であった。浪士たちを寺に入れた後、見物人がぞろぞろ押し懸けてきて門前の雑踏は引きも切らず。

同書より

これを読むと江戸庶民は討ち入りの事実を事前に把握していたように思います。江戸庶民が討ち入りを行わない浪士たちに対して、プレッシャーをかけたという記憶もあります。討ち入りがあのタイミングになったのは、上野介が茶会をするという情報をキャッチし、討ち入り当日には上野介が吉良邸にいるという確信を持ったこと。用意した軍資金が底を尽きかけていたので、それ以上延ばせないという事情もありました。しかし江戸庶民の「何故やらないの?」という有言、無言の圧力が、彼らの身にとてつもない負担だった可能性は十分にあるでしょう。今でも事情を知らない第三者が、ネットで当事者に惨たらしい言葉を投げかけたり、何かを強要したりしますね。時代が変わっても、人間のやることは変わりませんね。生き残った上野介を殺さないのは“不忠者”。しかしいったん事をなした後は“赤穂義士”として賞賛する。人間というのは実に都合の良い生き物ですね。

良く知られているように、当初幕府は赤穂浪士たちを厳罰(打ち首)に処すつもりでした。ところが民意だけでなく、幕閣の中からも彼らの行動を“義挙”として称える者が続出したようです。一般的な認識は、荻生徂徠の意見を採用して切腹となったというものですが、実際にはその前に、幕府内で喧々囂々のやり取りが重ねられました。吉良や上杉家に厳しく、赤穂浪士たちに対して寛大な処分を望む声が日に日に大きくなります。当然、議論の様子は大名たちに漏れ伝わります。彼らも加えて論議は大盛り上がりです。

老中上座であった柳沢吉保は頭を抱えます。というのは、内匠頭をろくな詮議もせず切腹させたのは将軍の意向でもありましたが、実際に命じたのは彼だったからです。ですから老中たちがこぞって浪士に寛大な処置を求めているのに、強引に突っぱねたら自分の立場が危ない。そこで登場するのが有名な儒学者荻生徂徠ですね。彼は持ち前の朱子学の知識をフル動員して、こう論じました。

「義」は自己を清廉にする道であり、「法」は天下の尺度である。(中略)いま四十六士が主君のために仇討ちをしたのは、武士として恥を知っていたからである。自己を清廉にする道であって、行為は「義」に叶うが、しかし自己一党に限ることであるから、しょせん「私」の論理にすぎない。なぜか。もともと内匠頭が殿中を憚らぬふるまいが原因で処罰されたのに、またぞろ上野介に報復したのは、公儀の許可なく騒動を企てたのであって、「法」の許さぬところである。いま四十六士の罪刑を決定し、武士の礼をもって遇してこれを切腹に処するならば、上杉家の存念も立ち、また赤穂浪士の忠義を軽んじない道理になる

同書より

論破大好きな徂徠らしい理論武装ですね。

「え?世間の評判も良いんだし、無罪放免だと思ってたけど。切腹とは…」
そんな意見もたくさんあったようですが、切腹は武士にとって非常に名誉なことですので、その時考えられる最も適切な処分と言えるでしょう。

赤穂浪士はその後、「義士」と称えられ、脚色された「事実」浄瑠璃歌舞伎で繰り返し演じられことにより、「義」の理想として私たち日本人の潜在意識に深く根ざすことになりました。ひところは第九や紅白と並んで年末の風物詩でもありましたね。しかし最近あまり見かけなくなったのは、日本人の価値観や意識の変化に伴うものでしょうか?1人の歴史ファンとしてはいささか寂しい現象です。

歴史を″学ぶ”者と歴史”ファン”の狭間で

1人のヨボヨボの老人を、40人を超える屈強な男たちが、武器を手にして無断で館に侵入し、集団で殺害したテロ事件。私が歴史事典に元禄赤穂事件を記すとしたら、こんな感じになります。事典に物事を記す際は、極力エモーショナルな表現は避けなければなりません。そうしないと事件の内容を正確に?伝えることが出来ないからです。本来はマスコミが何らかの事件を報ずる時も、こうしたフェアーな感覚は必要だと思います。とはいえ、人間である以上、どうしても感情を排するのは難しいですから、なかなかそうはいきません。感情はひとそれぞれ違います。人間の数だけ、歴史の見え方が存在するともいえます。だからこそ、私たちはたくさんの小説やエッセーを通して、歴史を楽しむことが出来ます。人間がアナログな生き物であって良かったと、つくづく思う今日この頃です。

私が伝えたかったこと

私がこのエッセーで皆さんにお伝えしたかったことは、上野介がどう思っていたかに関わらず、内匠頭にはそうしなければならない「何らか」の理由があったということです。上野介が実際に内匠頭をイビり倒していたかどうかは分かりませんし、内匠頭に精神疾患があったのかも今となっては分かりません。しかし何らかの事情があって、事件は起きてしまいました。事件後とはいえ、内匠頭自身が「遺恨」があったと言っている以上、偶発的だったと断じることは出来ないでしょう。もし上野介が本当にイビッていたとしても、彼にはその自覚がなく、あったとしても「許容範囲」と考えていたことでしょう。

歴史を「考える」楽しみ

赤穂浪士たちが、主君の「仇を討つ」として上野介を殺害したことは、果たして「義挙」だったのか単なる「事件」だったのか?彼らは「浪士」だったのか、それとも「義士」だったのか?私は皆さんに考えて頂くための「材料」を提供したに過ぎません。結論を出すのは皆さんお一人お一人なのです。誰かの受け売りを信じるのではなく、皆さん自身が考えて答えを出すことが必要なのです。

赤穂浪士たちが命を散らした元禄16年(1703)から、既に320年以上の時が経ちました。日本人が彼らの行動に深く心を動かされなければ、こんなに長く語り継がれることは無かったでしょう。

その背景に一体何があったのか?様々な本や資料に目を通し、スマホやAIに頼るのでなく、自分の「頭」考えてみる。歴史を楽しむことは、タイパを気にせず「手間暇かけてゆっくり」やるものです。このエッセーを閉じるにあたって、そんなことを皆さんにお願いしておきたいと思います。

                              おしまい


参考文献:野口武彦著「忠臣蔵―赤穂事件・史実の肉声」(ちくま新書)

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