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歴史に見るすっごくこわ~い嫉妬の話


人間だもの…

世の男性諸賢。昔の権力者を一夫多妻と決して羨むなかれ。本妻、側室に関わらず相手は感情を持った人間。下手を打つとトンデモナイ嫉妬の嵐が吹き荒れます。今回は歴史の中にそんな愛憎劇を探してみたいと思います。

漢字のルーツ?

今回お話しするのは、劉邦(りゅうほう)が建国した前漢王朝(紀元前206年~紀元後8年)でのお話です。(彼のことは本宮 ひろ志の漫画「赤龍王」でご存じの方もおられるかも知れませんね)

専門的な話で恐縮ですが、ちょっとした雑学だと思ってください。漢王朝は、途中に「新」という国を挟んで前後合わせてだいたい400年長く続いた王朝です。その関係で、普通は劉邦の起こした漢を「前漢」と称しています。また「三国志」で有名な董卓(とうたく)や呂布(りょふ)が活躍していた時代を「後漢」と呼んでいます。もちろん、当時の人たちは前後どちらも単に「漢」と言っているだけです。その漢字からも分かりますが、は色々な意味で後の中国の基準になった王朝と言えます。アバウトな理解として、そもそもこの国で使われていた文字が普段私たちが使っている「漢字」ですし、中国の大多数を構成するのは「漢民族」です。「漢」と書いて大人の男という意味でも使われますし。とにかく漢は長く続きましたから、あらゆる意味で中国人のアイデンティティに深く関わる王朝と言えそうです。

話を戻しますが、まあ劉邦はいわゆる任侠の親分だったんですが、これまた有名な項羽(こうう)という名門の貴公子とのバトルを制して本当に運よく「前漢」という国を興すことが出来ました。この辺の話は司馬遷の「史記」一つの読みどころでもありますし、小説なんかで人気がありますので、皆さんにもぜひ探して読んで頂きたいですね。人間学のテキストと言っても良いくらい、面白いエピソードがテンコ盛りですから。劉邦自体もかなりキャラの立った男ですしね。今回の主人公は、この劉邦の奥さんである呂雉(りょち)さんです。歴史に詳しい方は名前を聞いただけで「ああ、あの話か」となるくらい有名な話を紹介したいと思います。

恐くて賢い奥さん

劉邦も大したコワモテなんですが、その奥さんである呂雉(呂太后)は彼に輪をかけて恐ろしい女性でした。今では中国三大悪女の一人と言われています。史記によると、彼女の父である呂公(ちょっとした豪族の長)に「貴方ほど素晴らしい人相にあったことがない」なんて言われてその娘を娶ることになりました。当時の劉邦は端役には就いていますが、大した収入は無く貧乏でした。呂公は豪族ですからそれなりに羽振りよくやっていたわけです。呂雉がどんな人物であろうとも、劉邦としては喜んで妻に迎えたと思います。この予言は後に見事に的中します。数々の幸運を重ねた挙句、劉邦は漢王朝(前漢)を創設します。ちなみにこの時点で劉邦には愛人がいたようです。しかしそんなことは御構いありません。食べるためには呂公の提案を受け入れざるを得ませんからね。

「史記」に載っている実話を一つ披露しましょう。劉邦が50万を超える大軍でたったの3万に過ぎない項羽を攻めた時の話です。(彭城の戦い)誰もが圧倒的な兵数ですから項羽もこれで終わりか、と思いきや、精鋭の項軍の前になんとあっけなく敗北してしまいます。余程慌てたのでしょう。逃げる馬車から劉邦はスピードが遅くなるからと言ってなんと自分の子供を投げ捨ててしまいました。慌てて御者の夏侯嬰(かこうえい)が拾い上げるという話があります。投げ捨てられた子供が後に皇帝になるのですから、夏侯嬰の功績は計り知れませんね。当然、この時自分の子を投げ捨てられた呂雉カンカンだったと思います。彼女はこの時の恨みをずっと忘れなかったことでしょう。

「狡兎死して走狗烹らる」(こうとししてそうくにらる:ウサギを獲った後では猟犬が不要になる)の言葉の通り、韓信(かんしん)や彭越(ほうえつ)、英布(えいふ)といった功臣が処刑されています。彼らの粛清は呂雉が主導した言われています。彼女は太閤秀吉の妻高台院と同じく、夫の創業陰ながら支えてきた大きな功績があります。またその性格も残忍だったようですから、皇帝になったといえども劉邦は彼女に頭が上がらなかったんだと思います。智謀で有名な張良は、呂雉の病弱な息子を皇帝に立てた際に貢献したので、功臣としては珍しく彼女の覚えは愛でたかったようです。彼とて死にたくはなかったのです。他の功臣はビクつきながら毎日を送っていたことでしょう。劉邦の死後、彼女は実家の呂氏を次々に登用独裁を行いました。しかしその治世民百姓にとっては慈愛に満ちたものだったようで、司馬遷も「天下は安らかだった」と最大の賛辞を送っています。

私が彼女が賢かったと思うのは、異民族である匈奴(きょうど)から挑発する手紙を送られても兵を動かさなかったことです。匈奴は劉邦と干戈を交えており、劉邦は雪の影響もあり包囲された経験があります。漢にとっては実に苦々しい相手なのです。

「私も伴侶がおらず悶々と過ごしている。貴女も夫を亡くし寂しい想いをしているだろうから、一緒に楽しもうじゃないか」

なんて無礼な手紙を貰ったんですから、当然群臣は激怒します。兵を興して匈奴を攻めても良いわけです。しかし漢はまだ国が出来たばかり。そんな時に兵を動かせば混乱しますし、治世も安定しません。彼女はグッと堪えて出兵を思いとどまりました。この辺りの冷静な判断を見ると、彼女はかなり優秀な政治家だったと評価出来ると思います。

嫉妬の果てに…

そんな賢い呂雉でしたが、元来サディスティックな性格だったのでその嫉妬ぶりも恐ろしいものでした。劉邦には戚夫人(せきふじん)という側室がいました。彼女との間には如意という息子を儲けています。彼女は劉邦亡きあと呂雉が怖かったんだと思います。息子を皇帝にするように夫に働きかけを行っていたようです。しかしその甲斐なく呂雉の子が二代目の皇帝(恵帝)に即位します。この人はとにかく病弱で母に似ず優しい人でした。呂雉は夫が戚夫人を寵愛する様を苦々しく思っていただけでなく、その子を皇帝にしようと画策したことへの恨みも募っていました。劉邦が亡くなったのをよいことに戚夫人を殺してしまいます。ただ殺すだけでは飽き足らなかったんでしょう。両手足を切断し、目を抉り取り耳を焼き、薬を飲ませて声を出せなくし便所の中に放置したといいます。想像を絶しますね。しかもそんな状態になった夫人を「人豚」と称したそうです。どうやら恵帝はその様子を見たようです。その後一年近く寝込んでしまい、全く政治を行うことが出来ませんでした。挙句に酒と女に溺れ、若くして亡くなってしまいます。苦労して即位させた息子が死んでしまったのです。彼女は一体何を感じたのでしょうか。ちなみに、戚夫人の子どもである如意も呂雉によって殺されています。

この逸話と「史記」との関係

こんな話はでしょ。と思いたくなるのは人情ですが、私は実話だと断言して良いと思います。リアルに書いてあるからではありません。その理由は司馬遷の書いた「史記」の性格にあります。史記は中国の神話時代から前漢武帝の治世を描いた歴史書です。中国史上もっとも早く成立した「正史」です。正史とは「正しい歴史」ではなく「正式な歴史書」という意味です。皇帝が認可した歴史書ということですね。これが実は曲者で、皇帝が認めたから正しいことが書いてあるか、といえばそうでもありません。大人の事情であれこれ「盛って」書かれている場合が多いのです。「三国志」が資料として高く評価されるのは、そうした傾向が比較的少ないからですね。

司馬遷の家系は代々王室の記録を保管してきた家柄ですので、歴史に関する資料に埋もれた生活を送っていたのです。武帝とのトラブルもあり、彼は大いに発奮して史記を書いたのです。体系的に書かれた歴史書はこれが初めてですので、当時から高い評価を受けていました。しかも司馬遷は歴史を「教訓」とするスタンスで書いているので、基本的に嘘は書きません。嘘を書いても教訓にはならないからです。

この呂雉の逸話は、司馬遷が史記を書いた年代からさかのぼること90年程前の話です。司馬遷のお爺さん辺りだったら知っている可能性があります。彼女の強烈な個性は王室では有名だったでしょうしね。それに彼女は司馬遷が仕えた武帝の先祖に当たります。普通、現皇帝の先祖を悪く書くことは出来ないでしょう。なのに敢えて書いてある、ということは王室関係者なら誰でも知っている話だったということです。を書くと逆に史記の信ぴょう性が問われ、評価が下がりますね。だから漢の歴史は史実しか書けないというわけです。ですから私はこの話を実話だと断言しているのです。

歴史は栄枯盛衰の繰り返し

呂雉が次々と登用した一族は、残念ながら彼女の死と共に歴史の表舞台から消えてしまいました。生き残った創業の功臣である周勃(しゅうぼつ)や陳平(ちんぺい)らの尽力により呂氏の一派は一掃されました。彼らによって文帝が擁立されます。彼は前漢時代屈指の名君とされています。「歴史の揺り戻し」の一例ですね。呂雉は功臣たちを頼ることが出来なかったため、一族を頼りにするため呂氏の栄華を演出したのですが、彼らは私利私欲に走り評判が悪く、後ろ盾である呂雉が死んでしまうとあっけなく滅んでしまいました。平家物語ではありませんが、「驕れる者は久しからず ただ春の夜の夢の如し」です。どんなに勇ましいことを言おうが、どんなに権勢を誇ろうが、人は必ず死にます。統治者の交代によって、栄華を貪っていた人々も夜の夢のように消えて行きます。歴史は栄枯盛衰の繰り返しです。

呂雉の人生を見ていると、人間の儚さを思わずにはいられません。

                              おしまい

参考文献:陳舜臣著「中国の歴史(二)」(講談社)

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