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下級国民の家族小説/綿野恵太

 子供は親を選べない。そのことを景品くじの「ガチャ」に喩えた「親ガチャ」というスラングが流行したとき、小林秀雄「様々なる意匠」の有名な一節を思い出した。「人は様々な可能性を抱いてこの世に生れて来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、然し彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚く可き事実である」。この事実を小林は「宿命」と呼んだ。のちに柄谷行人は誰にも当てはまる私一般ではなく、ほかならぬ「この私」=「単独性」をこの一節に見出した(『終焉をめぐって』)。

 しかし、いまはどうやら違う。小林の言葉に擬えていえば、人は様々な可能性を抱いてこの世に生れて来ない。科学者になるか、軍人になるか、小説家になるか、はすでに決められている。「この私」を形作る家庭環境と遺伝子というふたつの偶然=「ガチャ」によって。しかも、このような「宿命」は誰しもが感じている。それどころか、占いやスピリチュアル、脳科学や進化論に飛びついては、「この私」の「宿命」を喜んで確認する。しかし、なぜ「親ガチャ」と言われるのか。

 このような宿命観は二〇〇〇年代にすでにあらわれていた。「ゼロ年代」と呼ばれたその時代、よく知られるように可能世界論がブームだった。佐々木敦によれば、ゼロ年代の思想は、この世界の否認→別の世界への欲望→別の世界の不在→この世界の肯定、とまとめられる(『未知との遭遇』)。具体名をあげると、東浩紀がさまざまな二次創作(可能世界)を生み出すキャラクターに注目し、美少女ゲームやライトノベルを新しい実存文学として論じた(『ゲーム的リアリズムの誕生』)。プレイヤーの選択によってストーリーが分岐するシナリオゲームのように、無数の選択によって成り立つ私たちの生も、選択されなかった無数の可能世界に取り囲まれている、と。対して、宇野常寛が「ここではない、どこか」に逃避するのではなく、「いま、ここ」の世界をサヴァイヴする新しい想像力を見出し、そして、この世界の豊かな可能性を拡張することを説いた(『ゼロ年代の想像力』『リトル・ピープルの時代』)。

 そのいっぽうで、さまざまな可能性から主体的に選択するのではなく、現実を所与のものとして受け入れる宿命観も指摘されていた。鈴木謙介によれば、終身雇用も期待できず、就職先が減少した当時の若者は「これを選んだことは、私の宿命にほかならなかった」と自分で納得することが求められた(『ウェブ社会の思想』)。しかも、このような「宿命論の前景化」は未来に期待することなく、現状に満足するために「私たちを内的水準では幸福」にする(『カーニヴァル化する社会』)。その背景には経済的な要因と、Amazonのおすすめ機能のように私の選択がアルゴリズムによってあらかじめ決定される管理社会化があった。

 当時は選択の責任を問う自己責任論が根強く、自己責任論と宿命観の矛盾に若者が引き裂かれていると鈴木は述べていた。しかし、いまやインフルエンサーであるひろゆきが「1%の努力(99%は遺伝子や環境といった運だ)」という時代なのだから、選択以前の宿命論=「親ガチャ」が流行するのは当然だといえる。

 もちろん、「もっといい親のもとに生まれていれば……」という空想は間違いだ。「上級国民/下級国民」という流行語が示す階級の問題であるのは明らかだし、格差は親の責任とはいえず、政治や経済の影響が大きい。しかも、そもそも子供は親を選べないはずだった。親が違えば、遺伝子も異なるわけだから、「この私」は「この私」ではなくなる。しかし、認識としては間違いであるものの、実感としてはリアルだからこそ「親ガチャ」という言葉が使われたのではないか。それはマルト・ロベールが「家族小説(ファミリー・ロマンス)」と呼んだものだ(『起源の小説と小説の起源』)。

 ロベールはフロイトの精神分析から着想を得て、ドン・キホーテやロビンソン・クルーソーをはじめとした近代小説が「家族小説」であると指摘した。「家族小説」とは自分の両親の愛情に不満を持った幼児の空想である。つまり、本当は王家や貴族の「捨て子」もしくは高貴な身分の男性と母の不義によって生まれた「私生児」であるがゆえに、いま不当な境遇に置かれているのだ、と。ロベールによれば、近代小説は捨て子と私生児のふたつの傾向に分けられる。私生児の場合はエディプス的な欲望を持つ主人公を据えたリアリズム小説となる。たいして捨て子の場合は「《もうひとつ》の世界を創る」。ドラゴンや魔女、悪魔が登場するおとぎ話やファンタジーとなる。

 さて、いま振り返るとゼロ年代の「可能世界」ブームとは「捨て子」の「家族小説」だったのではないか。この世界の否認→別の世界への欲望→別の世界の不在→この世界の肯定、というプロセスは精神分析的な成長物語となっている。東と宇野には「家族」という共通のモチーフがあったからこそ、論争も可能だったのではないか。宇野は国家を父に見立てる「成熟と喪失」(江藤淳)の図式を否定しながらも、小さな父(リトル・ピープル)という問題を論じていたし、東浩紀の小説『クォンタム・ファミリーズ』はそれこそ複数の「可能世界」に存在する家族をめぐるSFだった。

 近代小説はブルジョワジー=成り上がりものを描いてきた。彼らは貴族といった身分を打倒しようとする。その意味で「民主的精神」を持つが、しかしそれは自らが王になりたいからである。父殺しの欲望は底辺から成り上がる力になる。ロベールによれば、革命という「集団的父殺し」の罪は国民に着せ、みずからは皇帝=父にまで登り詰めたナポレオン・ボナパルトこそが「私生児」を体現する人物だった。

 いまや「父殺し」はリアルに思われないが、「親ガチャ」という「捨て子」の「家族小説」は語られる(もしかしたら「異世界転生」ものもその一つかもしれない)。しかし、それは、たとえ目の前の家族が機能不全で破綻していても、どこかにやんごとなき神聖な家族が存在するという幻想を与えることで、家族の理念を無傷のままにする。逆に言うと、家族の幻想を守るために高貴な身分とその家族を必要とする。たしかに昨今のロイヤルファミリーの配偶者をめぐる騒動を見ると、多くの人が天皇制にそのような役割を期待している。「家族」と「身分」は結託している。「親ガチャ」は「下級国民」の「家族小説」なのである。

(初出:「新潮」2022年2月号)


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