#194 クリフォード・ブラウン『ジャム』
最近 #クリフォード・ブラウン が愛おしく感じてきた。
以前にもコラムを書いたけれど、その時は、あんまり好きじゃないという感情を(あえて)滲み出していた感じで書いたような気がするけれど。
アルバムの作り方や、録音に問題があるような気がしてきた。
まず、アルバムの作り方。がっちりと、尺が決められて、テイクを重ねられて、「ジャズ・アルバム」を作り上げようととする、レコード会社(Emacy)のポリシーが感じられる。そのあたり、 #ブルー・ノート に近いと思う。行き当たりばったりのレコーディングではなさそうということだ。
ただ(私の知っているのは古い著書でのことだが)、ブルー・ノートは(つまり、 #アルフレッド・ライオン は)、リハーサルをギャラを払ってしっかりやらせていたのだと記憶する。だから、ブルー・ノートの音源に「別テイク」というのがあまり存在しないのだ。
クリフォード・ブラウンは違う、飽きるほどのリテイクが残されている(残されてないのもあるけれど)。それは、ミュージシャンの意向というよりは、プロデューサーの強い意向によるもののように思えるのだ。
新たなリズムや志向を試したわけでもなく、リテイクによって、演奏の質の向上を狙っていったのだ。けれど、これは、モダンジャズにおける中心的価値の一つ「即興」という要素から遠ざかる要因になってしまっているのだ。
それが「悪いところはない、けれど、教科書的でつまらない」といった印象を残してしまう。ブラウン=ローチ・クインテット名義のアルバムは、すべてそうした印象を与える。
それと、録音だ。残響の乏しい、ものすごい隣接録音であり、特にテナー・サックスの音色、つまりは、 #ハロルド・ランド や #ソニー・ロリンズ の音色の区別がつかないくらいである。(写真を超拡大したら、何を映したかわからないのと同じことである)。
近接マイクが、いいこともあるのだけれど(例えば、リヴィング・ステレオ録音などは、特別な魅力を今でも放っている)、楽器が空気に伝わったところを捉えるのが音楽の録音の基本だと思うし、演奏者もホールの聴衆に届けるよう、共演者に聞こえるよう、そういうつもりで演奏しているはずであり、そういう意識が強かった昔のミュージシャンにとって、この録音法はマイナスに働いたのではないか(そういう意味で、『ウィズ・ストリングス』では、その欠点が目立たない。クリフォード・ブラウンは、弦に「乗れ」ばいいだけの立場だったから)。
以上をもって、今ひとつ、私が、クリフォード・ブラウンの演奏にのめり込めない理由を書いたのだけれど、
Emacy録音には、もっとラフな、ジャムセッションの録音が何枚かあって、これがブッタマゲの内容であり、「ブラウン=ローチ・クインテットより、こっちを進める方が全然親切だよな」と思った次第。
特にトランペットの #メイナード・ファーガソン の高音がすごい。ブラウニー(クリフォード・ブラウンの愛称)も、高音の輝きでは負けているかもしれない。しかし、それに勝るアドリブの構成力で勝負しており、必要な時に、高音部で応戦する。けれど、スタジオ録音の温度の低さとは比べ物にならないくらい、ホットだ。
#クラーク・テリー も アルト・サックスの #ハーブ・ゲラー だって絶好調だ。これほど火を噴くようなセッションはライブでも珍しく、さらに凶暴で未完成だったバップの時代にもそう見受けられないものである。ブラウン=ローチなんて聞く暇がったら、迷わずこっちだろう。こういった凶暴性もジャズの一つの本質だろう。
熱くなっているブラウニーを聞いて、やっと、彼のことがわかってきた気がする次第である。
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