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鳥を迎へよ (Failte don ean,Séamus Dall Mac Cuarta) 私訳


鳥を迎へよ

鳥を迎へよ
日に伸ぶる灌木の美を歌へる森の最愛を迎へよ
この生に吾ははや倦みはてつ
そのすがた新緑の時も見ること叶はぬゆゑ

頭上の枝に面影さがせば
見えねど聞こゆ
くりかへし郭公よべる鳥の歌
そはわが苦き心痛ぞ

丘を取りまく花をたずさへ
北に南に、アイルランド中に集ひくる
どの郭公もみな美しと
みなが喜び語りあふ

(見ること叶はぬ悲しみは
孤独の吾に繁れる緑を眺めさす
森の辺に郭公見むと行ける人らと
ともに行けぬははつかに哀し)

※最終パラグラフはAnunaの歌では歌詞として使用されていないため、()内表記とした。

Welcome to the bird(ゲール語英訳)

Welcome to the bird, the sweetest in the trees
Who sings the beauty of the shrubs to the sun;
For so long a time I’ve been tired of life
For I cannot see her when the grass is new.

I can hear it, though I cannot see her,
The chant of the bird they call cuckoo;
To look on her in the branches above
‘Tis my bitter grief that I don’t have that gift.

Each one may behold the charm of the bird,
For all Ireland is gazing, north and south,
With all of the flowers on the hills around,
And everyone can speak of such things with delight.

My sorrow that I did not receive the gift of sight
So that in my loneliness I could watch the beauty of the leaves as they grow!
Part of my sadness – I’m not along with all those people
As they go at their leisure to watch the cuckoos at the forest’s rim.

Failte don ean(Anuna)

補足

「Failte don ean」(カタカナ表記するならばフォールチャ・ド・ィエンといったところでしょうか)の作者、Séamus Dall Mac Cuarta (1647? – 1733)はアイルランドの詩人。17〜18世紀のゲール語詩人学校の設立者(originator of a seventeenth and eighteenth century Irish language school of poets)でもあります。先天性か後天性かは不明ですが、幼少期から視覚障害のある人物であったことは確かなようです。
元の詩はゲール語で、拙訳はその英訳から二重翻訳しています。ゲール語の原文はこちらこちらなどに掲載されています(いずれも個人HP)。
wikipediaや上記個人blogでSéamus Dall Mac Cuartaはゲール語詩人として知名度が高いと紹介されており、「Failte don ean」もアイルランドでは有名な作品と思われます。この他、同作者による「An lon dubh báite」にも曲が付けられているようです。

第一パラグラフ後半は
For so long a time I’ve been tired of life
For I cannot see her when the grass is new.

また第二パラグラフ冒頭は
I can hear it, though I cannot see her,
The chant of the bird they call cuckoo;

となっており、ここで出てくるherはいずれもcuckooであると解釈しました。タイトルのwelcome to the bird の 「the bird」(theが付くので鳥全般ではなく特定の鳥) もcuckooのことでしょう。

郭公はヨーロッパにおいては春を告げる鳥であり、この鳥をモチーフにした曲が多くあります。現存する最古の英語バラッドのタイトルは「Cukoo song」です。
日本では5月に飛来する鳥ですが、イギリスでは4月中旬には飛来するそうです。イギリス、アイルランドの4月は日本の北海道の気候をイメージするのが良いでしょう。本州では2,3月から咲き出す花が一斉に咲く花爛漫……の時期が今まさにやってくる、あるいはもう少し、という頃。森の鳥たちは郭公を喜び迎え(welcome)、人間たちも森で郭公を見ようと探しに出かけます。
郭公を探すのがleisureとなるのは郭公が春告げ鳥だというのと、「声はすれども姿は見えぬ」鳥だから、というのもあるでしょう。郭公は鳴きながら体の向きを変えるため鳴き声が四方八方に響く一方、音源の特定が難しい鳥でもあります。
(参考・英米文学鳥類考:カッコウについて(桝田隆宏))

英訳を読む限り……ではありますが、詩ではsee, look, watch, gift of sightなど、視覚に関する表現の頻度が比較的高いようです。
それは郭公をこの目で見たい、つまり春にやってくる郭公と失われた己の視覚とを希求する作者の心の表れとして見ても良いのではないか、と思います。

コーラスグループAnunaの主催Michael McGlynnは「Failte don ean」のテキストにメロディーをつけた合唱曲(上記動画)を作っています。
曲は冒頭、鬱蒼とした森を示すような和音の遷移によるヴォカリーズから始まります。数小節続いたヴォカリーズのパートが減り、唯一残ったソプラノパートがそろそろフェードアウトしそうなところで、ソロソプラノ、及び女声による歌詞が飛び込んできます。
ほぼ同じ歌詞、同じような音の動きを相互に歌い合う女声のメロディーは、郭公を迎える森の鳥たちの囀りを思わせます。鳥のさえずりを歌や楽器で再現しようとする取組みは西洋音楽では古くからあるものですが、恐らく歌詞の内容を知らない人でも、この曲のコーラスを聞いて(詩の主体が肉眼で見ることの叶わなかった)森と鳥のイメージが浮かぶ人は多いのではないかと思います。

一方、Michael McGlynnの「Faillte don ean」において、Séamus Dall Mac Cuartaの詩の最終パラグラフは削除されています。すなわち元の詩で書かれていた主体の「見ること叶はぬ悲しみ(My sorrow that I did not receive the gift of sight)」について、曲中で歌われることはありません。

曲は、ソロソプラノのダブルHi-Dへのゆるやかな上昇と消滅で終わります。それは詩の主体が見ることを望んだ郭公の声にも、あるいは森へ郭公を探しに行った主体の友人たちの、遠いさざめきの光のようにも思えます。
冒頭のヴォカリーズや曲末尾の陰のある和音によっても「Faillte don ean」がただただ明るい鳥のさえずりと春の喜びを歌っただけの曲でないことは十分に暗示されていますが、おそらくこの曲において詩の主体の「見ること叶はぬ悲しみ」は、目が見えなくとも届くであろう音によって、悲しみそのものではなく、詩の主体が見ることを望んだものらを暗示することで示されているのでしょう。

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