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月曜日の図書館 調和した世界

映画「アイ・アム・サム」のはじまりのシーンがとても印象に残っている。喫茶店で働くサムが、お店のカトラリーを美しく整えるシーン。カップ、ストロー、そして砂糖。ケースにぎゅっと詰められた砂糖の袋がズームアップされ、ひとつだけ裏向きになっている。それを、サムの指がひょいとつまみあげ、きちんと前向きに揃えるのだ。

スマホの画面を見つめ、わたしは安堵する。
これで世界の調和は守られた。

今年に入ってから、登庁処理の方法が変わった。専用の端末から庁内のイントラネットにアクセスし、「登庁」ボタンをクリックする。

この操作のたび、職場にあるまじきものが視界に入り、世界がぐんにゃり歪む。端末の横に、なぜかラーメン屋のショップカードが置かれているのだ。もうかれこれ一ヶ月は経つのではないだろうか。

犯人はこの事務室の中に絶対いるはずだ。単に置き忘れたにしても、登庁は誰でもするのだから、次に端末を操作するときに気づくはずである。

あるいは意図的に置いたままにしているのだろうか。ラーメン教の信者なのか。わたしたちに毎日ショップカードを見せることで潜在意識にラーメンを擦りこませようとしているのか。

捨てたい。
めちゃくちゃ捨てたい。

勝手に捨てて早くせいせいしたいが良心が痛む。かといって朝礼で告知するほどのことでもない。ここを出入りする人間ひとりひとりに確認するのも億劫である。

事務室の至るところ、こんなふうに放置された用途不明の物品だらけだ。本のしおり、先っぽがなくなったボールペン、「明日の朝刊休みます」のちらし、そしてなぜか食パンの袋を留めるあれ。

作業台も、本の修理ボランティアさんが来る一瞬だけきれいになるが、帰った途端に散らかる。修理しかけの本、ファイルに綴じようとして穴を開けたままの書類、ラベルシールを貼った後の台紙、出しっぱなしのはさみ、はさみ、はさみ。これでは何の作業もできない!

おさまるべきものが出しっぱなしになっていると、すごく気になる。決められた場所にあるべきものがないと、落ち着かない。

毎年行われるストレスチェックで、「自分のペースで仕事ができる」と「集中して仕事ができる」には必ず「まったく当てはまらない」に○をつけている。

片付けたい同志のT野さんが近くにいるときは「何でこんなところにこれがあるの」「いらないよね」「捨ててもいいかな」「捨てよう捨てよう」と言い合うことができる。ただ、T野さんはわたしの琴線に触れる古いはんこ(パソコン導入前に使っていたもう押せないもの)や味わいのある座布団(特定のいすだけになぜか何年も前から据え付けられたままで煮染めたような色になっている)まで捨てようとするので油断ならない。

価値観の違う他人同士がいっしょに働くというのは、何て難しいのだろう。

わたしのこの「すべてがぴっちりしていないとしんどい」病は祖母ゆずりだと思う。ちゃぶ台に置いておいた封書を無言でくず箱に入れられたとか、部屋から離れている間に勝手に電気を消されたとか、嫁姑問題に悩まされた母から聞かされる祖母の逸話には共感しかなかった。ばあちゃん、それすげーわかる。

けれど祖母と同じ行動を取ってはいけない。説明もなしに自分の気持ちを優先させたら、他人というのは気分を害するのだ。だから捨てたいものがあるときは、行動に移す前に、必ず別の誰かの了解を得ることにしている(たいていはT野さんひとり)。時々我慢できなくてこっそり闇に葬ることもあるけれど。

食パンの留め具の名前を気になって調べたら、「バッグ・クロージャー」というのだそうだ。

vol.90

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