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桃谷蛙月
2020年4月16日 23:41
それが、雅巳なりの駄洒落だと気づく頃には、もう遅かった。 雨が降りそうな日、雅巳はいつもキャンディを僕に差し出した。「もう直ぐ降るから」 なんで用意しているんだよ、とか、折り畳み傘の一つでも出してくれたらいいんじゃないの、とか、言いたいことは山ほどあるけれど、全部飲み込んで差し出されたキャンディを受け取った。見慣れた棒付きキャンディ。乱暴にフィルムを剥いて口に含めば、人工的なグレープの味が
2020年4月13日 22:11
いつもそこにあったのに、なぜかその日は、それが目について仕方がなかった。 家の庭に置いてある、木製の棚の一番下の段、ずっと放置されたそれは、砂埃で薄く汚れて、汚らしかった。それなのに傷ひとつついていない。指でつう、となぞれば、私の指の太さのラインが、砂で薄汚れた表面に引かれた、そのまま曲線を上へとなぞり、淵の波をゆるゆると撫でていく。なんともまあ、可愛い形状。抱えてみれば、すっぽりと両腕に収ま
2020年4月12日 23:55
例えば、私がシンデレラだとすれば、ガラスの靴をもらって、お城に行けばいい。人魚姫なら、嵐の夜に、船から落ちた男性を助ければいい。白雪姫なら、森で小人の住む小屋を見つければいいし、ラプンツェルに至っては塔からの脱出を諦めなければ良い。 そんな簡単なことなのに、「運命の人」に出会うのは、どうしてこうも難しいことなのだろう。電車に寄り添うように、背を預け、ぼんやりと考える。 例えば、だ。シンデレラ
2020年4月11日 19:22
青春とは綺麗に言ったもので、結局のところ病と大差ないのだろう。渦中はそれが世界の全てだと思い、過ぎ去った後は免罪符になる。あの時は青春だったのだと、レッテルを貼って仕舞えば、綺麗なまま取っておける。綺麗な、病気だ。 そんなことを一人でぼやく私も、例に漏れず、青春という病の患者だ。厭な事に、本当に厭な事に。 それを自覚したのはいつだったか、多分、心待ちにするようになってからだろう。彼のS N
2020年4月11日 16:25
私たちは、いつも二人で遊んでいた。 お爺様の家の時計は、家の大きな柱にも負けない、大きくて立派な木でできている。鈍い金色をした振り子が、ガラスの向こうで大きく、規則正しく揺れていた。「この振り子にしがみ付いて遊べたら、きっと楽しいと思うわ」 大きな目で振り子をじっと眺めながら、沙耶が言った。「ガラスを壊して仕舞えば、遊べるかしら」「駄目だよ」 私がそう言えば、沙耶は大きな目をゆるりと
2020年4月3日 00:53
この部屋が昔、音楽室として使われていたことは、ほんのつい最近知った。よくよく見れば、錆かけの本棚の中に、薄汚れた楽譜が何冊か、積み重なっている。まあ、そんな物を見つけていたところで、きっと私は全部先輩の持ち物だと、勝手に勘違いしていただろう。片足の無い机の上に置かれた電気ケトルも、棚の中に置かれたオルゴールも、なんだかよくわからない分厚い本も、全て先輩の物なのだから。「祖父の教え子がね、この学
2020年4月1日 00:30
雪は冬の、なんていうけれど、実際のところ一番雪が降るのは冬と春の境目だと思う。急に寒くなった室温に体を震わせ、真冬に比べて少し心許ない掛け布団に身を包んでカーテンを開けた。 ああ、やっぱり。雪が降っている。 着替えるのも億劫だったので、ずるずると布団を引きずったまま、ヤカンに水を入れ、コンロにかけた。そのまま、お湯が沸くまでぼんやりと、窓の外を眺めていた。 平たくて大粒の雪は、風に吹
2019年8月5日 01:06
この世界は言葉であふれている。 人を認める言葉、人を否定する言葉、人を救う言葉、人を傷つける言葉、力強い言葉。 感情、空気。そういった言葉で柔らかくされているけれど、結局のところ、強者が弱者を縛り付けるものでしかない。「あ、また飲み込んだ」 アイスコーヒーをストローでかき混ぜながら、篤史が言った。「飲み込むって?」 先ほど食べたサンドイッチのことだろうか。そんなに、食べるのが早かっ
2019年8月25日 00:24
この関係に、言葉なんていらなかった。 夏休みの終わり、8月の第3日曜日。住宅街の大通りを塞き止めて、車の代わりに人を流す。歩道には似たような屋台が並び、小中学生が我が物顔で溢れ返る。所謂地域の、ありきたりな夏祭り。 小さい頃は、それこそ道のあちこちに宝箱が並んでいる気分だった。例えばシロップかけ放題のかき氷。或いはじゃんけんに勝つと二つもらえる、つやつやのフルーツ飴。当たりはないと噂のく
2019年10月20日 17:04
「松葉」茜の呼び声に応じるようにして、顔を起こす。短いキスと、肌の温もり。一瞬だけ触れて、彼女は再び自分の世界に戻った。この行為に意味はない。茜にとって、"キスをすること"は本当に些細なことなのだ。例えば、辞書を引いて言葉を調べるように。絵描きが、デッサンをするように。小説家や漫画家が取材旅行と言って海に行くように。恋とか、愛とかは関係ない。気になったから、するのだ。そのために、定期的
2019年10月22日 19:18
旧校舎の二階。扉を開けると水を吸った木の匂いと、たまったほこりの匂いが鼻腔を擽る。開かずの棚の道の奥。二つ並べた古びた机の寝台。そこがあいつの特等席。「寝てんのか」 窓から差し込む、午後の日差しを浴びながら、あいつはゆっくりと顔をこちらに向けた。「起きているよ。お前の足音は騒がしい」「じゃあそれらしくしろよ」 ん、と小さく返事をして、友瀬は体を起こした。足の高さが不ぞろいな机が、ガタガ
2020年3月30日 23:29
その日は一人になった瞬間、涙が溢れて止まらなかった。 誰もいない、携帯もない、バスルームの中。シャワーの中に嗚咽を隠して、ぼろぼろと泣いた。脳裏に浮かんだのは、上司の顔、先輩の顔、友人の顔、さっきテレビで見た芸能人の顔、歌番組のC Mで歌っていたアイドルの顔、最近会えていない好きな俳優の顔。規則性もなく、次々と浮かんでは消えてゆく顔。誰のものともわからない、老婆の顔。 きっと一過性のもの