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名付けることもないほどの些事

 この関係に、言葉なんていらなかった。

 夏休みの終わり、8月の第3日曜日。住宅街の大通りを塞き止めて、車の代わりに人を流す。歩道には似たような屋台が並び、小中学生が我が物顔で溢れ返る。所謂地域の、ありきたりな夏祭り。

 小さい頃は、それこそ道のあちこちに宝箱が並んでいる気分だった。例えばシロップかけ放題のかき氷。或いはじゃんけんに勝つと二つもらえる、つやつやのフルーツ飴。当たりはないと噂のくじ引きに、今日が終わればゴミになるヨーヨー。そのすべてが輝いて見えた。
 制服を着るようになってからは、楽しみはまた違うものへと変わった。そしてそれは、どれだけの月日に揉まれようと、私の心に居座り続けた。
学校とは違う環境。非日常の、その中で。見慣れない服装に身を包んだ、見慣れた友達。そして、茜色と濃紺が混ざり合う空の下、人ごみの中、すれ違いざまに見る彼の姿。

 私と彼は、大した接点もない、いたって普通のクラスメイトだった。いや、クラスメイトですらなかったのかもしれない。同じ教室で学ぶだけの、他人と他人。友達の友達の友達の、友達。その程度
の関係だった。
 あの夏の日、私が偶然、人ごみの中から彼を見つけるまでは。

 別に誰かを探していたわけではなかった。ただぼんやりと、かき氷をつつきながら人ごみを眺め歩いていると、ふと視線の先に、見慣れた顔の集団が映った。その中の一人に焦点が当たって、そのまま、つつ、と無意識のうちに目で追っていた。ええっと、誰だっけ、同じクラスの、少しだけ目立つグループの、あまり目立たない子。そんなことをぼんやりと考えていたら、ふと、視線が交わった。

 ああ、須藤。須藤拓海だ。

 私を見て、少しだけ目を見開いた須藤は、ばつが悪そうに笑った。その顔を見て、私は慌ててそっぽを向いた。
 見られた。見ていたことが知られてしまった。
きっと、夏休み明けの学校で、惚れた腫れたの噂話が私の心を置き去って飛び回り、あちこちにひろがるのだろう。あの子、須藤のことが好きなんだって。全然そんな感じなかったのに。いいじゃん、付き合っちゃえよ。みたいな感じで。
ああ、嫌だ。最悪だ。

 そんな私の不安をよそに、休み明けも私と彼の生活が交わることはなかった。きっと、そう。気のせいだった。夏の熱気と祭りの輝きが見せた、幻だったのだ。そう思ってしまうほどに。
 

 それなのに、年に一度、私たちの時間は交わる。


 茜色と濃紺が混ざり合う空の下。ソースの匂いと、見慣れた屋台。落とし物を告げるアナウンスが、どこか遠くに響いている。気を抜けば友人ともはぐれてしまいそうな人ごみの中で、私は彼とすれ違う。毎年、必ず。
制服を着なくなってからも、酒が飲めるようになってからも、私と彼は、変わらずそこですれ違う。
変わったことと言えば、須藤の笑顔が柔らかくなったことと、私が会釈ぐらいは返せるようになったこと。呼び止めもしない。言葉を交わすこともない。のちに連絡を取り合うこともない。ただ、数秒すれ違うだけ。それでも、その瞬間のその行いは、とても尊いものとして私の心に居座り続けた。

 もう、きっと、運命なのだ。織姫と彦星のように、年に一度の逢瀬を重ねる。いつか、何かの拍子に、劇的に形を変える。そんな、御伽噺的でロマンチックな、運命なのだ。


「須藤って覚えてる? 須藤拓海。あいつ、結婚するらしいよ」
 屋台で買ったばかりの山盛りの氷に、「かけ放題」と用意された色水を思う存分かけながら、アヤが言った。
 一瞬、何を言っているのか理解ができなかった。けっこん、ケッコン、結婚。言葉を理解して、頭が真っ白になった。
「職場の後輩の婚約者だったの。マジでびっくりした」
「えー、世間せま。て、志穂どうしたの。めっちゃぼーっとして」
「え、いや、あの、えへへ」
 我に返って、居た堪れなくなった。氷の山を崩しては口に運美、考える。どうしよう。逃げ出してしまいたい、走り出してしまいたい。恥もプライドもかなぐり捨てて、この人ごみの中、彼を探して問いたい。いや、やっぱり何も知りたくない。すべては幻だったのだと、そう思って、幸せなまま終わりたい。何も、気付きたくない。
 

ふと、顔を上げると、遠くからこちらへ進んでくる彼の姿が目に映った。彼も、私に気が付いて、視線が交わる。今年も、いつものように、数秒の逢瀬を重ねる。言葉も交わさない、呼び止めもしない、はずだった。

 私は、手を伸ばして、通り過ぎる彼の腕をつかんだ。
「あ、のっ、えっと、須藤くん」
「え、あ、宮園じゃん。久しぶり」
 絞り出すようにして発した声は、思っていたより言葉の形をしていて、安心した。呼び止めて何を話そうか。呼び止めるつもりなんてなかったのに。
「いつぶりだっけ。俺、成人式行けなかったから、卒業式ぶりとか?」
 嘘ばっかり。知っているくせに。気付いていたくせに。
「え、ああ。うん。卒業式ぶり、だね」
 まるで織姫と彦星のように、毎年ここで会っていたじゃない。
「社会人にもなって、地元の祭りで同級生に会えると思わなかったわ」
 私は会えると思っていたよ。今年も。だって毎年、いたでしょう。そう言いたいのに、言葉が喉の奥に閊えて出てこなかった。引き留めた手は離せないのに、どう続けたら良いのか、わからない。

「結婚、するの?」
 やっとのことで絞り出した言葉は、そんな恨み言紛いのことばだった。
「アヤが、言っていたの。後輩の婚約者が須藤君だったって」
「あー、そっか。そこ繋がりか」
少し都合が悪そうに、それでいて照れくささを隠すように彼は笑った。
「うん。結婚するよ」
 毎年、この時期はあなたのことを想っていたのに。
「そうなの」
 私ばっかりが想っていたなんて、不公平じゃない。
「うん」
 運命だと思っていたのに。好きでもないなら、彼女がいるなら突き放してくれればよかったのに。最低。裏切者。そんな言葉が体の中をめぐるのに、一つとして外へは出せなかった。ただ、彼の表情が、立ち姿が、幸せだと叫んでいるように見えて仕方なかった。
「じゃあ、そろそろ」
 彼がそういうのとほとんど同じタイミングで、私は彼を引き留めていた手を離した。
「またね」
「うん、またどこかで」
 さようなら。

「……お幸せに」
 人ごみの中に消えていく背中を見つめながら、かけられなかった言葉を小さく落とした。

 濃紺一色で埋め尽くされた空の下。ソースの匂いも、色とりどりの屋台たちも、もうそれほどに心をときめかせてはくれない。溶けて色水と化したかき氷の結露が、私の左手を濡らす。

迷子のお知らせが、喧騒にかき消されながら、遠く響いていた。

 


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