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第Ⅻ章 アップルゲニウス−2

Vol.2
ガタン。ソファーから雪崩が起きて雪が崩れ落ちるようにして僕は落ちた。僕の身体の上には毛布が乗せられており、冷えたココアがテーブルの上には置かれていた。覚醒していく脳が自分の記憶を思い起こし、Windowsを立ち上げるように僕は低い声を上げながら伸びをした。身体に乗せられている毛布は母がかけてくれたものだろう。そう、僕は本を読んだまま寝てしまっていたんだ。重たい体を起こし、僕は洗面台へと向かい、歯磨きをした。口の中が気持ち悪いネバネバしている。早く歯を磨いて寝よう。そう思いながら僕は歯磨きを素早く、でも入念に行なった。時刻はすでに2時を回っていた。シーンとした廊下はどこか闇の奥にいるような感覚にさせる。僕は、暗闇に飛び込むようにして寝室へと歩いた。

 ベッドに入り、目を閉じる。ベットは冷たく冷えており、僕の命を吸い取っていった。歯を磨いたせいだろうか。ミントの香りが口腔内に広がり、なかなか眠ることができない。僕は、自分の将来について考えることにした。このままサラリーマンとして人生を終えてしまう。つまらなく単調な人生。周りには輝かしく生きている人たちもいる。周り?誰のことだ。そう思い返すと、SNSやYutubeで輝いている人たちが浮かんだ。僕の知る隣人たちは物価高で苦しみ、画面の向こうの人たちは煌びやかな生活を過ごしている。そう言うことだろう。「何がしたいんだ。僕は。」

’’君は何がしたいかも分からずにフラフラと生きているだけだ。’’

「そんなことはない。僕は、100万円貯金をして、その後、投資や副業を始めて徐々に年収を増やしていく。そのために、今質素に暮らしているんだ。」

’’ほう。立派なもんだ。でも君は、今何をしているの’’

「えっ。」

’’だって、君の貯金はもう数年も前から100万円に達している。’’

「・・・。」

’’ダンマリか。現実を見ているようで君は現実を正しく認識していないようだ。’’

「そんなことはない。僕は、しっかり見ている。現実を。だからこそ、こんなにも社会を憂いている。」

’’君のはただ同じことを繰り返しているだけだよ。フラフラと思考を放浪しては世界を憂いて。自分の今の生き方を非難している。花は根に、鳥は古巣に。正しく君はそれを体現している。’’

「そんなことはない。僕は小さい一歩を踏み出しながら、日々社会について考えているんだ。」

’’傲慢だ。随分と偉くなったな。社会のことを考えてどうなった。君は社会学者か。違うだろう。そうやってグズグズと考えて何が生まれたんだ。何にもないだろう。残ったのは、空虚な感情と俯瞰満足感だ。’’

「俯瞰満足感ってなんだよ。」

’’君みたいに、全て知っているかのように考えながら、上から目線で一人語りする。まあ、簡単にいえばそういった愉悦で自慰行為しているようなことのことさ。’’

「意味がわからない。そんなことはない。」

’’意味がわかるから君は、今目をしかめて強く否定をしている。わかるよ。気持ちいいもんな。’’

「うるさいな。別に気持ちなんて良くはない。」

’’ははっは。そうやって頑固に否定していくことで老害と言われる人種に君もなっていくんだよ。’’

「それは嫌だ。」

’’そうだろう。君の救えるところは、自分は老害じゃない。と言わないところだな。老害予備軍は、ここで老害ではないと否定する。でも君は、成りたくないという。まあ、否定が強すぎて逆になってしまうことがあるが’’

「僕はどうしたらいいんだ。」

’’どうしたんだい。急に。さっきまでの勢いがなくなってしまった。’’

「正直、僕は自分が何をしたいかもわからない。このままの人生も嫌だ。」

’’そうか。やっと正直になってくれたんだな。偉いぞ。そうやって自分を見つめることから始めた方がいい。強い思いが運命を変えるなんて幻想だ。そうやって気負えば気負うほど君のようにどこに走ればいいかわからなくなるんだ。君は、真面目すぎた。今まで必死に走ってきたんだろう。そうすると、いつの間にか周りが違う景色になっていて、自分の立ち位置がわからなくなっていたんだ。’’

「そうなのかもしれない。僕は、大学を出てからは、効率を重視してきた。でも、その効率が与えてくれるのは虚しい気持ちだった。効率なんておっても心は何も動かないんだ。」

’’そりゃそうだ。人の人生は、余白に意味を見つけるようなものだ。効率なんていうものは工場の生産性だけでいい。人生に効率なんて求めたらいけない。まあ、効率を全く考えないのは良くないが。もっと、本能的に何かを追い求めてもいいんじゃないかい。’’

「本能ー。」

’’そう。本能だ。人間らしさ。人が人として産まれ持った欲望に従っていいんじゃないか。我慢も必要だが、どこかにはけ口がないといけない。’’

「我慢していたことー。」

’’いい子になろうとしなくていいんだ。もう君は、親の所有物じゃないんだ。やりたいことは自分でやれる。大人なんだ。’’

「使いきれないくらいのお金が欲しい。好きな仕事がができるくらいの地位が欲しい。可愛くて愛嬌があって優しい彼女が欲しい。ヨーロッパやアメリカやハワイ、世界旅行がしたい。銀座でめちゃくちゃ美味しい寿司が食いたい。自分が好きな推しに会いたい。景色が綺麗で住みやすいいい部屋に住みたい。おしゃれな洋服が欲しい。どうしよう。やりたいことがいっぱいある。叶えたい夢がたくさんある。」

’’随分と欲張りだな。君は。まあいい。そのくらい強欲になった方がいいだろう。では、今の君がこれを叶えるためにはどうしたらいいだろうか。’’

「行動力。」

’’間違いではない。その欲望に気づければ、君はきっといい人生を歩んでいくとができるはずだ。’’

「そうだねー。」

’’何かいいたげだね。’’

「うん。」

’’いってごらんよ。隠し事は無しにしよう。’’

「きっと、僕はこの欲望たちを叶えたとしても、また次の欲望が溢れてきてしまうと思う。」

’’人の欲に際限はないからね。でも、それは普通のことだ。悪いことじゃない。’’

「そうだと思うよ。欲望を叶えた後の自分を想像した時、きっと次に行き着くステージがなんとなくわかるんだ。だから、今いった欲望は通過点に過ぎなくて、本当に自分がやりたいことはその先にあると思う。」

’’それは何かな。’’

「日本が良くなるべきだと思う。それは、ある意味社会貢献に近い。」

’’たとえばどんな風に’’

「そうだね。超少子高齢化によって起こる人口減少や物価の高騰、安い賃金に高い税金。いくら自分がよくなっても国が悪ければ、負のスパイラルは止まらない。たまに思うんだ。政治家たちを見ていると、自分の方がもっと自由にもっと良い社会を気づくことができるのに。どうして政治家たちは碌なことをしないのだろうと。だって、簡単なことじゃない。少子高齢化が進むのなら、子育て支援の拡充はもちろん、まずは国公認のマッチングアプリを作り、出会いの場から支援するべきだ。税金の使い方も下手くそすぎる。留学生や外国人ばかりに優遇し、日本人が高い税金を支払うのはおかしい。そのお金をもっと別の政策にお金を回せばいい。居眠りや、ながらスマホをしながら国会に出ている議員なんて辞めさせてしまえばいい。派閥なんてものよりもその人がいかに政治を正しくなるかを公平に評価し、総理大臣を選ぶべきだ。馬鹿馬鹿しい柵に囚われて、本来あるべき姿の政治がなされていないんだ。そんな一部の人間が得をしているような社会は間違っている。だから、僕は変えたいんだ。より良い日本を築くために。」

’’確かに、現状の社会は政治家たちが日本の蜜を吸っている。明治維新といって大義のために活動していた影はもうない。昭和の高度経済成長期へ導いた優秀な政治家はもういない。’’

「なんで、ダメになったんだろうか。」

’’平和すぎたんだよ。日本が。’’

「平和ー。」

’’そうだ。色々な天災はあったにせよ。戦争もない。一揆や社会運動、テロもない。随分と平和だ。国民も政治家も平和になれすぎたんだ。’’

「そうだね。」

’’でもきっと、君の本当にやりたいことは、これなんじゃないか。君の使命は、国のために革命を起こすことがやりたいんだよ’’

「そうなのかな。どうしたらいいかな。どう日本をよくしたいのかわからないんだ。」

’’そこが君のネックだったんだね。’’

「うん。」

’’じゃあ、ひとつづ考えてみようか。夜は長い。’’

「いいのかい。」

’’ああ。もちろんさ。では、話そうか。君は、今の日本の社会の何が問題だと思う。’’

「そうだね。まずは、腐敗した政治が問題だと思う。」

’’なぜ’’

「腐敗した政治のせいで、集めた税金がうまく利用されていない。物価が上がるのに税金が上がるせいで実質賃金は上がらない。」

’’確かに問題だ。では、どうしていけばいいと思う。’’

「国を揺るがすような国民の社会運動が起こればいいんじゃないかな。」

’’選挙じゃダメなのかな。国民が勝ち取った民主主義の権化だと思うのだけど。’’

「選挙はダメさ。一極集中の政権体制の今、多政党が勝ち取ることは難しい。それに、若者は既に諦めている。自分たちの意見が日本にとっては超マイノリティになっている。民主主義の権化がもはや時代遅れの制度となりつつある。世界は変わりつつあるのに政治は何も進歩なんてしちゃいない。」

’’時代にあった政策は必要だね。では、どうしよう。君の思う社会運動とは。’’

「僕の思う、社会運動ー。それは。」


「いつまで寝てるの。お味噌汁冷めちゃうわよ。」

「うん。」

母が僕を起こしにやってきた。ああ、あれは夢だったのかな。僕は眠たい目を擦りながらリビングへと歩いて行った。リビングに行って朝食をとる。久しぶりに飲む味噌汁は美味しかった。

「あんた、昨日本読みながらソファーで寝てたんだよ。風邪ひいちゃうからちゃんとベッドで寝ないとダメよ。」

「はーい。」

僕は、適当に返事をした。母は、洗濯物を干しにスタスタとリビングを後にした。リビングでは、テレビのニュースが流れていた。また、政治家が賄賂をもらっていた容疑で記者たちに追及されている様子だった。何をしているんだか。こんな師走に。僕は呆れてものが言えない。食事を済ませ、天気もいいので軽く地元を歩いた。久しぶりに歩く地元は、懐かしいようで、錆びついて、どこか新しい。生物学者の先生が生物と無生物の違いは、動的平衡を行っているかいないかの違いだといっていた。生物は、常に外部からものを取り込み、昨日の自分とは構成する分子や原子は違うものの自分という存在は昨日と同じものを保っている。つまり、生物は日々生まれ変わりながらもその存在を刻んでいくというものだった。きっと、街もそうなのかもしれない。この街も生きている。絶えず人が流動し、さまざまな建物が作られたり、壊されたりと時を刻んでいく。そして、明日もきっとこの街はこの街として存在しているんだ。そんな壮大なことを考えながら僕は大晦日という時を少しずつ過ごした。

 「新年、明けましておめでとうございます。」

 テレビから新年の挨拶が流れ、正月らしさを押し付けてくる。僕は、この正月番組ってやつがあまり好きではなかった。毎回毎回、新春企画と題して行われる企画に飽き飽きしていたのだ。昔はお年玉をもらえるから嬉しい気持ちもあったが、大人になってからはそんなことはない。幸い、まだあげる相手もいないため今のところは良いが。あげるようになったら大変だろう。ただでさえ、政治家たちに税金という名のお年玉をあげているのに。そんな余裕なんてないのだ。

「お雑煮のお餅何個食べる。」

「一個でいいよ。」

「私も。」

「お母さんは2個食べちゃう。」

「お母さん、太るよ。」

「いいのよ。もう太っているから。お父さんはお餅何個食べる。」

「2個でいい。」

我が家では、おせち料理を正月に食べない。準備などの手間を考えると、面倒なのもそうだが、たくさん作っても食べないというのもある。日本の廃れゆく文化の一つでもあるのかもしれない。おせちを頼むこともできるが、そこまでしなくても、お雑煮くらいで良いと我が家は至った。

「お雑煮できたわよ。」

母がそういって、テーブルにお雑煮を並べた。僕らは、家族揃って「いただきます。」といい、お雑煮を食べ始めた。母のお雑煮は鶏ガラベースの出汁にお餅と白菜、それから椎茸とかまぼこが入っている。母の味とはなんとなく落ち着くものだ。僕は、お餅を食べながら正月番組を見ていた。変わらない生活がそこにある。新年という行事に対して僕は楽しいと感じなくなっていた。それは、一年の始まりを迎える面倒くさい行事であるという認識にいつの間にか変わっていたのだ。僕は、お雑煮を食べ終わると、部屋に戻り、タブレット端末で動画を見たり、電子書籍を読んだりすることにした。既に午前中で正月番組に飽きてしまったのだ。3日までは、このような正月番組が続くため、僕はこんな生活をずっと続けた。その間、祖母の家に行ったり、墓参りをしたり、親戚の家に挨拶をしに行ったりしたが、大きなことをなすこともなく、僕はただ、この生活を何かの充電期間のように思いながら。明日で、地元から帰るという日の昼、父から温泉に行こうと言われた。少々面倒くさかったが、行かないとうるさそうだったので一緒に行くことにした。温泉は、とても人が多かった。こんな田舎にこんなに人が多くいるなんて、普段はどこに隠れているんだ。老若男女がこぞって桶にシャンプーやタオルなどを入れて温泉に集まっていた。券売機で五百円の入浴券を買って、父の後を歩きながら男湯へ向かった。

「人が多いな。いつもはそんなにいないのに。」

「正月だから地元に帰ってきた人とかがいるんじゃない。」

「そうかもな。」

脱衣所を出て、体を軽く流し、湯船へ浸かった。最初は、熱いと思ったが徐々にじんわりと心地よくなっていった。

「ここの温泉は、肩凝りとかに効くらしい。」

「へー。」

「そういえば、昔な。電気風呂に初めて入ったことがあってな。その時は、電気風呂だと知らなくてな。俺が痛いと大きな声で叫んだもんで、みんなあわてて駆け寄ってきたことがあるんだ。」

「まあ不意に電気流れるとびっくりするよね。てか、電気風呂って昔からあるんだ。」

「俺はちょっと露天風呂に入ってくる。」

「はーい。」

そういって父は露天風呂の方へ歩いていった。僕は、隣にあった電気風呂に入ってみた。うん。電気が通る感覚が気持ちがいい。僕にはこのくらいの刺激がある方が好きだと思った。湯煙が立つ中、僕はゆっくりと当たりを見渡した。

’’随分とゆっくりできているじゃないか。どうだい。正月は楽しめているかい。’’

僕の耳元で聞き覚えのある声が囁いた。

「急にどうしたんだ。びっくりするな。」

’’ずっといたさ。ずっと。’’

「そうだあったんだ。」

’’ところで、どうなんだい。君は、決心がついたのかい。’’

「ついてるさ。もう、準備はできている。」

’’期待しているよ。君の描く世界を。’’

父が露天風呂から帰ってきた。

「早かったね。」

「人が多くて落ち着かないから帰ってきた。俺は、人がゴミゴミしている場所が嫌いなんだ。」

そういって、父は体を洗うためにシャワーのある洗面場に行った。それに僕も後を追っていった。せっかちな父が僕のことを待つこともないのだ。僕は、父という人間を理解している。だから、気を使うというか、そうやって他人の行動予測をする能力がいつの間にか身についていた。そのせいで、ある意味行動が億劫になってしまっていることもあるがー。頭を洗い、顔、身体と綺麗にしていく。全てが終わり、僕は脱衣所に戻った。丁寧に体を拭き、髪を乾かす。体の芯から温まる感じに心地よさを感じていた。しばらくすると父がやってきた。「もう出たのか。」と言って父は豪快に身体を拭いて服を着た。

「何か飲むか。」

「水がいいかな。」

「おう。」

そういって父は、水を2つ買ってきた。僕は勢いよくそれを全部飲み干した。父は、チビチビとお水を飲んでいた。

「あんまり飲むとビールが不味くなるからな。」

父はそういって笑った。この人、がんを患っているというのに酒を飲むのか。ちょっと呆れていた。

 帰省中の最後の晩餐。今夜のメニューはすき焼きだった。いつもは買わないようなA5ランクのお肉を使っていた。父が、お前が奉行をしろといったので、僕がすき焼きを作ることになった。牛脂を鍋に引いて、牛肉を片面焼き、ひっくり返した後にすき焼きの割下を加えた。勢いよく入ったので、ジュウーと蒸発する割下が弾ける音がした。そこに、白菜や豆腐、椎茸、にんじん、白滝、春菊、もやしをいれた。肉は、野菜の上に乗せて鍋に蓋をした。5分くらい中火~強火で煮ると最高の状態になっていた。完成したすき焼きに父は誰よりも早く橋を延ばした。肉を溶き卵につけた父は、美味しそうにその肉を食べた。

「やっぱり高いお肉はうまいな。」

「そうだね。」

父の言葉に返事をしながら僕は甘辛い醤油に浸ったお肉が卵のドレスを着て口の中に運んだ。とても美味い。肉の脂身が甘い。赤身は噛むととろけるように消えた。どんどんお肉を追加して、途中野菜を挟みながらお肉に舌鼓をした。途中で安い肉を挟むとやっぱり高い肉の方が柔らかいし、味わいが1次元も2次元も違う気がした。

「てか、お父さんお酒飲み過ぎよ。」

「今日くらいいいだろう。」

「そう言って、このお正月はずっとお酒飲んでるじゃない。」

「これが最後の一杯だだから。」

「もう。」

そう言って、母は父のグラスにお湯を注ぎ、父はそのグラスを受け取り焼酎を注いだ。

「セレン。お前は飲まないのか。」

「えー。明日早いから。酒はいいかな。起きれなくて帰れなくなるのも面倒だし。」

「1杯くらい付き合えよ。」

「しょうがないな。」

僕は、嫌々ながら父親に継がれた熱々の焼酎のお湯わりを啜った。その後も、家族でワイワイしながらお肉を頬張った。酒も飲んだせいか、いつも以上に満腹になるまでご飯を食べて僕は満足だった。というかもうはち切れそうだった。僕は、自分の部屋に戻り、ベッドで横になりながら本を読んでいた。このまま寝てしまいそうだった。うとうとしていると、突然、酔っ払った父がノックをせずに僕の部屋に入ってきた。

「よっこらせ。」

酒臭い父は、僕のベットの上に座った。僕は、眉間に皺を寄せる。なぜなら、ベットのうえに座られるのがあまり好きじゃなかったからだ。

「なんだよ急に。」

「手術・・・、した方がいいと思うか。」

父が深刻そうな声で僕にいってきた。心なしか声が震えているように感じる。

「医者はどういっているの。手術した方がいいとかしなくても大丈夫だとか。どのくらいの確率でひどくなるとかいっていなかったの。」

「医者は、どっちでもいいといっている。前立腺癌は進行も遅いし、経過観察をしながらでもいいといっている。」

「そっか。」

「俺は、嫌なんだ。ずっとがんのことを考えながら生きるのが。ふとした瞬間に自分ががんだって思うのが嫌で。」

「そうだね。それはストレスになるもんね。」

その割には、酒を飲む量が多い気がするが。今日も焼酎のお湯わりを何杯飲んでいたのかわからないくらい飲んでいたのにな。と内心僕は思っていた。すると、父は話を続けた。

「そうだ。考えるのが嫌なんだ。でも手術は不安というか。怖いんだ。成功するかもわからないし。前立腺を取ると、尿漏れのリスクがあると医者は言っていたし。」

父の目線が低くなる。こんなにも父がしょんぼりとしているのは初めてみた。昔、風になって休んだ父ですらこんなには弱っていなかった。老いたのか。それともそもそも父はそういう人だったのだろうか。

「そうだね。前立腺を取ってしまうから、尿漏れのリスクがあるもんね。」

「それはそれでしんどいんだ。おむつ生活になってしまうのは恥ずかしいし。」

「まあ、ノーリスクなんて人生にはないんだ。遅かれ早かれ手術をしなくてはならない。それに、経過観察で骨に転移したら放射線やホルモン療法なんかもあるけど、それは手術よりも体に負担がかかるからね。」

「ああ。それに、経過観察だと病院に通うのが大変になんだ。わざわざ一時間もかけて病院に毎回行くのは面倒くさいし。検査の時間も考えると半日以上もかかるし。」

「だったら、今のうちに手術をしてしまった方がいいんじゃないかな。」

「やっぱり、そうだよな。今のうちに手術した方がいいよな。」

父は、表情が少し明るくなった気がする。きっと、僕が手術をした方がいいといって欲しいのではないかと思った。誰かに背中を押して欲しいのだろう。今まで、自分でなんでも決めてきた頑固親父のような人だったのに。いつからか、僕の意見を頼るようになっていた。それは、おいのせいでもあるかもしれないし。小さかった自分がいつの間にか大人になったからかもしれない。正直、こういう判断は自分よりも他人に判断してもらった方が冷静な判断をすることができる。そういうことは多分考えてはいないだろうが。

「うん。それに、これからどんどん歳をとっていくと体力もどんどん減っていくわけだし。」

「そうだな。経過観察をするよりも手術することにする。」

「それがいいと思う。変なストレスをかけるよりは、ここで綺麗に取ってもらった方がいいと思うよ。」

僕がそういうと、父は少し満足そうな顔で僕の部屋を出ていった。

 翌日。僕は、父の運転する車に乗って空港へと向かった。空港までの道すがら、父がずっと次はいつ帰ってくるのかとかと聞かれた。僕は、「お盆に帰ってくる。」と伝えると父は少し嬉しそうにしていた。だが、空港に着くと父はずっとダンマリしていた。キャリーバッグを預けて、保安検査へと向かう最中もずっと父はダンマリだった。代わりに母が、風邪をひかないようにしなさいと口うるさく言っていた。僕は、「はいはい。まあ、引くときは風邪を引くさ。」と言って返事をした。いつまで経っても母には僕が子供に見えるらしい。そして、僕の飛び立つ便の名前が呼ばれる。

『東京羽田行きK〇〇ー』

「じゃあ、そろそろいくわ。」

「気をつけてね。」

そう言って、僕は父と母を後に保安検査へと進んでいく。父は、黙って僕の方を見ていた。父はいつも去り際は黙っている。普段は口数が多いのに、こういう時は少ないのだ。これが最後じゃあるまいし。と僕は思っているが、父は意外にもそう言ったものに臆病なのかもしれない。保安検査を抜けると、滑走路が見えるガラス張りの待合所がそこにはあった。天気は快晴ー。空を飛ぶには絶好のお天気だった。帰省を挟んでなんだかリフレッシュできた。とはまた違うが、なんだか一つ掴めた気がする。自分が本当にやりたいことを。それは、まるでニュートンがリンゴが木から落ちた時に万有引力の法則を思いついたかのように。
 なんだか、新しい何かが始まるようなそんな期待に旨を含ませ、僕は飛行機の出発を待った。

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