激動の時代を生きた或る日系移民の手記
私の祖父のお姉さんは1919年にアメリカに移民として渡り、生涯を終えました。そのアメリカのおばさんからときどき届く、アメリカのものがたくさん入ったお届けもの。子どもだった私にとってその鮮やかなパッケージに包まれた食材やお菓子が、たくさんのアメリカを教えてくれました。中学生のときに姉妹都市だったアメリカ・オレゴン州ローズバーグ市でのホームステイに参加したり、大学時代にニューヨークに留学に出かけたり、私にとってアメリカは一番身近で、親しみやすい国という想いがあります。
実家を掃除した際、家系図とともに、約20年ほど前に亡き父が何時間もかけて私に読んでくれた「アメリカのおばさんが遺してくれた手記」が見つかりました。達筆な力強い文字で綴られている手記の多くは、わが家のファミリーヒストリーを知る内容でしたが、おばさんが移民としてアメリカに渡り、戦禍などの多くの苦難を乗り越え生きる姿は、コロナ禍という苦難の時代を迎え、さらにロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルとパレスチナのよる紛争、不安定さを増す国際情勢、相次ぐ地震など、日々悲しいニュースを目の当たりにする、いまを生きる私にとって、心うつ内容でした。
手記は家系図を作っていた伯父がアメリカのおばさんに問い合わせたことをきっかけに書いて送ってくれたものとのことでした。おばさんはこの手記を書いた翌年、カリフォルニア州パサデナ市にて逝去しました。88歳でした。
約100年前を生きたひとりの日系移民の人生を、想いを、多くの方に知っていただけたらと思い、記録としてnoteに記しておきたいと思います。
2020.8 (2022.8 、2024.1 追記しました)
ふるさとは遠きにありて思ふものと云いますが、年を重ねるほど、しかも異国生活に長い私には忘れられないことが多いものです。結婚により、私はアメリカに渡ることになりました。弟がいるとは云っても一人娘をアメリカへ行かせるべきでないと思ってゐた人もいたようですが、母は自分が若かったら行ってみたかったと言っていましたから、母の夢を私に移したのかもしれません。
今、思えばアメリカに来て不幸だったとは思いません。
1918年8月25日に結婚式を挙げ、翌月、夫が渡米しました。私は翌年の5月に村上(新潟県)を去って、6月4日に春洋丸に乗船し、6月25日にアメリカ・サンフランシスコに上陸。ロスアンゼルスを経てパサデナに落ち着いたのがちょうど独立記念日だった7月4日でした。
渡米して間もなく洋裁学校に通いました。その間に長女が誕生し、3年後に長男が生まれ、平凡な家庭の主婦の毎日でした。情報を早く知ることが出来なかった時代ですから、関東大震災の発生を知り、上京していた弟の身を案じたり、3人目の子どもを死産する憂き目もあひました。
子どもたちは成長し、長女は13歳、長男が11歳になった1932年の夏、ロスアンゼルスにてオリンピックが開催され、若者たちはオリンピックの真似事に夢中になっていました。その頃、長男が風邪をきっかけに肋膜炎となり心配しましたが、幸い元気になり、安心しました。
その翌年の8月に次女が誕生しました。長女と長男は現地の日本語学校に行っていましたが、アメリカの公立学校が休みの土曜日だけでしたので、日本の学校に留学させることとなり、私は1936年の夏、18年ぶりに帰国しました。
ある日、東京の学校に編入して楽しく通学していた長男が突然、私に次女を連れてアメリカへ帰へりなさい、と云うのです。一寸驚き、理由を聞くと「僕たちは市民権を持ってゐるから何時でも帰へられるけど、ママは市民権がないから(当時は持っていませんでした)長く日本にゐると帰へるとき面倒だし、妹のエデュケーションのためにも帰へった方がよい」と云う思いからのようでした。心配する母を弟が説得してくれ、私をアメリカへと帰へしてくれました。
6月末に帰米して1週間ほど経ったころに日支事変(=日中戦争)が始まりました。どうなることかと案じてゐた折、弟が召集されたとの手紙がありました。母は留学していた子どもたちを世話してくれました。弟は2年ほどして除隊となり、その後、結婚しました。戦時中とは云っても、みんなでよろこびあいました。
その日支事変から時が過ぎ、日米間にあらたな不安が出てきました。二世達(在日)も憲平に呼び出されたり、尾行されたりしたことをあとで子どもたちから聞きました。
1941年の春、長女はちょうど日本の学校を卒業し、長男はまだ一年残っていたけれど、あまりむずかしくならないうちにと思い、日本の学校をあきらめて帰米させました。そしてふたりは又、こちらの学校に通っていましたところ、12月8日、パールハーバーの戦場がはじまり、こちらは大変なさわぎとなりました。子どもたちが帰へってちょうど1年目の1942年の3月にキャンプ(=日系人収容所)に入所させられました。
長男は入所後まもなく風土病を患いました。キャンプはほどんど砂漠地帯で、特に私共の収容所はひどく、同病で亡くなった人たちが多かったです。しかし、長男は一時快復していましたので、白人だった先生の招きでニューヨークの学校に入ろうと云ってゐる間に再発し、入院しました。その先生の計らいで特別に手当てをしてもらうことが出来ましたが、とうとうだめでした。22歳の若さでたくさんの希望を持っていたでしょうに、それを成就してやれない事は親としては最大の悲しみでした。
最後のキャンプを出所し、長女がシカゴのカレッジにゐましたので、私は主人、次女とともに2年半ほどシカゴで暮らしました。そして1945年の終戦をシカゴで知り、長女の卒業を待って、1947年の夏にようやくパサデナの家に帰へりました。
収容所に入って帰へるまでの5年間は生涯のうちで最も苦難の多い期間でしたが、あれから45年もの間、目新しい世の移り変わりに生活も一変してきましたし、一年づつ歳を重ね、私は88歳となりました。喜びも悲しみも歳月の流れに洗い流されて今があることを、感謝しております。
Flower Illustration by momonotane
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