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東京は2回壊滅した

和田博文さん編著の「モダン東京地図さんぽ」という本のはしがきにこのような一文があります。

東京の都市空間は2回壊滅した。最初は1923年の関東大震災によって、次は1945年の空襲によって。

モダン東京地図さんぽ 編著:和田博文

新人賞用に絶賛執筆中の作品の舞台は1923年の東京。そしてたまたまではありますが、東京に行く用事がありましたので、今回は「東京に残っている古いもの」をテーマに旅をしてきました。
個人的に学びが深かったので、ご興味がある方と共有できると嬉しいです。


1、関東大震災とは

まずは簡単に関東大震災について。
今からおよそ100年前にあたる1923年9月1日午前11時58分32秒に、相模湾海底で地震が発生。マグニチュードは7.9と言われています。
揺れは首都東京、横浜、鎌倉、小田原など神奈川県、千葉県など南関東の広範囲に及び、死者・行方不明者は10万5,000人とされています。
関東大震災で特筆すべきは、地震後に発生した火災による被害が甚大だったこと。
地震発生時間を見ていただくとわかるように、どのご家庭でもちょうど昼食の準備のために火を使う時間帯でした。
東京のあちこちで発生した火災が木造長屋に燃え移り、山のように家財道具を積んで逃げ惑う人々に燃え移り…と、さながら地獄絵図のような悲劇が起きました。
本所区(現在の墨田区)の陸軍被服廠に逃げ込んだ人々が火災旋風に巻かれ、約3万8,000人が亡くなったことはあまりにも有名です。
今回の旅で訪ねることはできなかったのですが、この陸軍被服廠跡は現在、横網町公園になっており、公園内には関東大震災や空襲で亡くなった方を弔う東京都慰霊堂があります。

余談ですが、私は宮藤官九郎が脚本を務めた大河ドラマ「いだてん」が大好きです。
「いだてん」の前半戦クライマックスがこの関東大震災でした。
ビートたけし&森山未來による古今亭志ん生の「東京が燃えた」に一言に含まれた言葉の重み。
大事な生徒を震災で亡くし、失意のうちに熊本に戻る主人公・金栗四三に、大竹しのぶが演じる義理の母(本当は赤の他人(!?)ですが、わかりやすく義母とします)が一喝、「いだてんとは、食べ物を運ぶ神さまのことたい!」。ここで本当の意味でのタイトル回収。
義母の一喝で奮い立った金栗四三が、食べ物を詰めた駕籠を背負い、焼け野原になった東京の街をひたすらに走ったその瞬間、彼は人々にとってかけがえのない「いだてん」になったのだと思いました。
折れた浅草十二階や、朝鮮人虐殺事件などの描写もありますので、ストーリーとして関東大震災を理解するにはわかりやすいかと思います。
何度でも言う。サブスク解禁してくれ~~!!

2、浅草エリア

浅草観光センター

今回の旅のスタートは浅草から。
浅草観光センターで地図やパンフレットをゲットします。
こちらに寄ったのは、地図やパンフレットの入手という目的もありますが、単純に建物を見たかったからです。
マッチ棒を少しずつずらして積み上げたような建物をデザインしたのは、隈研吾氏。
新国立競技場やサニーヒルズを手掛けた建築家として有名ですね。

浅草寺

食べ歩きを楽しみつつ、浅草寺へ。
雷門と仲見世は地震後の火災で燃えてしまいましたが、宝蔵門や五重塔は燃え残りました。しかし、両方ともその後の東京大空襲で燃えてしまったので、現在私たちが見られるのは戦後に建て直したものです。
関東大震災時、浅草寺が燃えなかったのは観音様の御利益だ、という風説が広がり、絵草子まで出回りましたが、実際は浅草寺に逃げてきた方々が一生懸命バケツリレーをして火を消したからのようです。
往年の悲惨さなど欠片もなく、写真を撮りまくる観光客を見ると、「平和!!最高!!」とにっこりしました。そんな私もまごうことなき観光客。

浅草十二階と花やしき

当時、浅草には、凌雲閣という名前の、十二階建てのシンボル的建物がありました。今の東京タワー的な存在と言っても良いのではないでしょうか。
凌雲閣は地震によって8階部分からぽっきりと折れ崩落。同時に火柱が吹き上がったそうです。
隣接する花やしきでは、市民の安全を守るために急遽猛獣が射殺されました。

新吉原の娼妓を襲った悲劇

新吉原の娼妓たちにも悲劇が襲います。
浅草公園と吉原公園に別れて避難した新吉原の娼妓ですが、これが命運を左右します。
結論から言うと、浅草公園に逃げ込んだ娼妓は助かり、吉原公園に逃げ込んだ娼妓はそのほとんどが亡くなりました。
明治になって、西洋の倫理観が入ったことにより、娼妓の自由廃業を促す法整備が進んでいましたが、貧困のため色町の門戸を叩く女は当然いました。そんな彼女らは、楼主にとって商品です。楼主としては売り物である彼女たちを吉原外には出したくない。
その結果、吉原の5ヶ所から発生した火焔が吉原公園に迫り、逃げ場を失った娼妓1,000人が園内にある池(弁天池?)に飛び込みました。
焼死者と溺死者が増え続け、6時間後に池から生きて出られたのは50人程度だったとも言われています。
森まゆみさん著の「聞き書き・関東大震災」にはこのような一文がありました。

「……時間が経つと浮かんでくるんです。頭のない顔だけの遊女の死体と、すっぽりとれた髪とが別々になって、池一面に浮かんでいる様は、とても口では言い表せない悲惨なものでした」 石原ハナさん(浅草)

聞き書き・関東大震災 著:森まゆみ


弁天池

3、上野エリア

旧岩崎邸庭園

浅草の焼失戸数が99%に比べて、焼け残った地域もあります。
次に足を運んだのは池之端にある旧岩崎邸庭園です。
旧岩崎邸庭園は、1896年に岩崎彌太郎の長男で三菱第3代社長である久彌の本邸として造てられました。
往時は約1万5,000坪の敷地に、20棟もの建物が並んでいたようですが、戦後のGHQの介入を受け、現在は3分の1の敷地となり、現存するのは 洋館・撞球室(ビリヤードをする部屋)・和館の3棟となりました。
木造2階建・地下室付きの洋館は、鹿鳴館の建築家として有名な英国人ジョサイア・コンドル。
イスラーム様式を取り入れているようで、国内の洋館ではあまりないようなオリエンタルな内装を楽しむことができます。(内部は撮影禁止)
洋館の空中階段はぜひ見ていただきたいです。

洋館の外観。ご家族は基本的に和館に住み、洋館は来客をもてなすゲストハウスの役割だったそう。
洋館の外観をお庭から。
洋館の外観をお庭から。サンルームに繋がっています。
和館の外観。お抹茶+お菓子が楽しめます。
撞球室の外観。洋館とは地下道で繋がっています。
撞球室の内部。当時のビリヤード台でしょうか。

関東大震災の際は、地震や火災に逃げ惑う市民に対し、避難場所として旧岩崎邸を解放したというエピソードが残っています。
現在でも立派な馬車道を上った先に岩崎邸はありますし、当時は今よりずっと敷地面積が広かったので、市井で発生した火災に巻き込まれることはなかったのでしょう。

4、谷中エリア

谷中ぎんざ

谷中・根津・千駄木のエリア、いわゆる「谷根千」は関東大震災でもほとんど焼けず、空襲でも焼け残ったところが多いことで、下町の景色が今なお残っていると、外国人観光客にも人気の観光スポットのようです。

谷中ぎんざ商店街。写真を撮った時刻は昼日中ですが、夕暮れ時の景色がとても綺麗なようです。

写真を見てもわかるように、日暮里駅周辺は高台なので地震の影響が少なかったのかと思いましたが、根津は低地である上に地盤が緩かったようなので、よくわからなくなってしまいました。

お茶屋さんの看板。ずいぶん古そう。
細く入り組んだ道

谷中ぎんざから根津方面に向かって歩きましたが、特に説明が要らないほど古い建物が林立しています。
細く入り組んだ道が多いのも、谷根千の特徴ではないでしょうか。
関東大震災後は、復興として大規模な区画整理を行いましたので、区画整理の対象にならなかった道が残っているのも貴重だと思います。

観音寺の築地塀

観音寺の築地塀
観音寺の築地塀を別角度から

こちらは有形文化財に指定されています。
土と瓦を交互に積み重ねた土塀に、瓦屋根をふいた築地塀は幕末に築かれたもののようです。

カヤバ珈琲

カヤバ珈琲

1938年開業の純喫茶。建物自体は1916年からあるとのことなので、一部改修工事などもされているようですが、そのほとんどが100年以上前の姿を留めています。
一時はその歴史に幕を下ろして閉店されていましたが、復活を願う多くの方の支援を得て、再スタートをされたそうです。
こちらは店内であっても並んで待つことが禁止なので、事前にネット予約をしておくことがおすすめです。
私は2週間ほど前にネット予約の存在を知り、慌ててアクセスしてみましたが、すでに満席でした…。
そのため、内部のお写真はありません。いつかリベンジしたい…!

5、さいごに

佐久間町の奇跡

今回訪れることはできませんでしたが、神田区にある佐久間町で起こった奇跡の功罪について述べ、締めくくりたいと思います。
神田区は現在の千代田区の一部であり、佐久間町は現在も存在する町名のようですね。秋葉原駅の駅前にあたる地域です。
神田は特に火元が多く、焼失戸数は95%。にもかかわらず、佐久間町は焼けなかった。地域住民が逃げずとどまり、消防ポンプと神田川の水を使って決死のバケツリレーをした結果、延焼を防ぎ切ったからです。
やがて、佐久間町の経験は美談となり、「自分の町は自分で守れ」が戦争下の国土防空法へ変質利用されるようになりました。
それにより、空襲時に逃げることよりも消火を優先させ、悲劇に繋がった人々がいると指摘をする研究者もいるようです。

佐久間町の人々の、命を懸けた努力を否定するのは絶対に違うと思う一方で、美談として安易に右に倣う危険性をおそろしくも感じました。
科学がどれだけ進歩しようとも、天災は完全に防ぎきれないもの。
先人たちが語り継いできたこと・ものを胸に刻んで、日頃から災害の対策を講じていきたいと思いました。

「東京は2回壊滅した」とタイトルに書きましたが、裏を返せば東京は2度も苦難に立たされながら蘇った都市です。
小心者の私などは、大都会東京の名前を聞くだけでびびってしまいますが、日々新しいものが生まれては目まぐるしく移り変わる東京であっても、――いえ、だからこそ、古いものを守り続けている方々の痕跡を辿れたのは、とても有意義な時間になりました。
今回は関東大震災だったので、次は東京大空襲に着目して旅をするのもいいですね。

ここまで長々とお付き合いくださいまして、ありがとうございました!


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