人間の根源的な受動性について
自主的な人になりなさい。
自立した人になりなさい。
自主性を重んじよう。
これらの言葉は教育の世界だけでなく、
色んな所で耳にする言葉です。
僕自身も日本の未来を考える上でもはや避けられない「単身世帯での死者の増加」を、
「孤立死」ではなく「自立死」にしていこうよ。
ということを1つのテーマにしています。
どうせ1人で死ぬ可能性が高いなら、
自分の意志で生きて、何らかの人間関係に接続された状態で、
死んでいこうや、と。
ですが、そもそもの生き物としての特性を考えたときに、
本来「ヒト」というものは、「受動的」であります。
生まれたい!
という意志を持って、自主的に生まれてくる人はいません。多分。
このような意味においては、
ヒトは絶対的に受動的です。
親を選ぶことも、家庭環境をはじめとした生まれる環境も、選ぶことはできません。
生まれてからしばらくの間も、基本的には受動性を持って暮らしていくことになります。
では、ヒトはいつ頃から「自主的」であることを求められるのでしょうか?
小中高と、学校生活の中で、
「自立しなさい」「自主性を重んじた教育を」
と聞くことはあっても、
実際にリアルなところでそれらを求められるのは、
社会的に守られた期間を終えて、社会に出てからではないでしょうか。
ここが日本の教育の一つの問題であると思います。
学校で何一つとして、「自立する」とは何か、どういった状態のことを表すのか、
そしてその練習、予行演習をせずに、
いきなり社会に放り出され、
「ここから先は自己責任なんで、よろしく」
と突き放されてしまう。
幼い頃から自分で選択すること、自分のことは自分で決めるということを学んでいれば…
今現在多くの人が抱える悩みもこの世に存在しなかったかもしれません。
「自立」「自己選択」「自己決定」を子どもに学ばせるためにはどうすればいいか。
そのヒントは、先ほどまで考えていたヒトとしての生来の受動性、
つまりは「人間の根源的な受動性」にあると思います。
人は生まれるという時点においては受動的である。
「この世に生を受ける」
受けると言っていますからね。
であるならば、そこから能動的な主体として成るには、必ずそれを促す環境が必要になる。
それを作るのは大人の、ヒト→人に成った先輩の役割ですよね、ということになりはせんでしょうか?
人は産み落とされるという行為においては絶対的に受動的である。
であるならば、主体として自立するにはこれまた絶対的に他者の助けが必要になる。
僕たち大人が、自分の足で立つ練習ができる環境、仕組み、仕掛けを作っていかねばならない。
そうは思いませんか。
という導入剤として、この「人間の根源的な受動性」というものを知っておくのは肝要なことではなかろうか、というのが、
本稿の言いたいところであります。
小野トロ
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