能力は個人のもの?
今日は「能力」というものについて話していきます。
その前に何かと話題の「能力主義」について。
社会問題に興味がある方や、教育に携わる人などは、この言葉とそれに伴う「自己責任」という言葉はもはやお馴染みかと思います。
ですので今回は「能力主義」の是非については問いません。
問答無用で「能力主義はNG」というスタンスからスタートさせていただきますので悪しからず。
さて、ではその「能力だけで人生が左右されるのは良くないよね」と能力主義へNO!を突きつける前に、
「じゃあ能力って何だろうか?」というものを考えていきましょう。
ネットで簡単に調べるとこう出てきました。
なるほど。ピンと来ませんね。
こう言われると、「やり遂げる」「なし得る」とはいったいどういう状況でどこまでいけば「やり遂げた」と言えるのか、「有効」かどうかは誰が決めるのか、とても曖昧ですね。
ここに僕が今回話したいことの大きなヒントがあります。
能力とは「やり遂げる力」「なし得る力」「有効なもの」
しかしそれはどこに基準が置かれているか不明瞭である。
ということはですよ。
実は「能力」って、揺るぎない、客観的なものだと思っていたけれども、
相当に「揺らぎ」を孕むものなのではなかろうか。
これが今回の論の出発点です。
能力と言えば、1度身につければ定着するような、その人固有のもののような、絶対的なもののようなイメージを持ちがちです。
「コミュニケーション能力が高いからどこへ行ってもやっていける」
「英語を話せるから重宝される」
「色んな資格を持っているから食いっぱぐれない」
「類まれな身体能力があるからアスリートとして活躍できる」
「天性の歌声でスターになれる」
「効率よくマルチにタスクをこなせる能力で昇進間違いなし」
そう、能力はまるで個人が世の中を生き抜いていくための武器コレクションのようなものと捉えられています。
コレクションを豊かに、かつ強い攻撃力や守備力を持った装備を数多く持っている人が、
生きていく上で他の人より優位に立てる。
つまり、「能力」という概念は現代において、
極端に「個人化」されていると言えます。
しかし、本当にそうでしょうか。
能力は本当に個人だけのものなのでしょうか。
上に挙げた「コミュニケーション能力」「語学力」「資格」「身体能力」「音楽センス」「効率よく働ける」
これらそれぞれを、1つずつ見ていきましょう。
まず、コミュニケーション能力。
これは今でこそ「必須」なもののように考えられていますが、当然のことながら人類の歴史を通してずっと必要なものであったわけがありませんよね。
時代や人々の考え方、潮流によって変わる。
言わばその時代の大きな枠組み、今なら新自由主義、資本主義、グローバル経済の中でなら、という注釈付きでそれは初めて「能力」となる。
そして何より、以前の記事で「コミュニケーションはスキルではない」とぶち上げたように、コミュニケーションはそもそも相手がいることが前提であって、「コミュ力高い」はそれを受け止めて気を遣って合わせてくれている人の存在を完全に無視しています。
次に語学力。
これも、英語人口が多いから能力とみなされるだけで、世界中の国々がそれぞれの言語でしか話をしないようになれば、それは「能力」とはならずただの特性となるでしょう。
資格。
これもそれが必要、あるいは差異を作るものでなければ意味をなさない。
身体能力。
これも不動の存在に感じますが、身体能力がもてはやされるのは興行としてのスポーツが繁栄しているからです。
野球というスポーツがなければ、イチローの天性のバットコントロールも意味をなしません。
そして原始時代に戻ったとしても、人々の暮らしを脅かす天敵となる動物が存在しなければ特に身体能力は意味をなさないでしょう。
音楽センス。
これも音楽が金になる、そして人を楽しませることができる世界だから意味を持ちます。
効率よく働ける力がある。
これも「効率よく働くことが正義だ」という考え方が大多数を占めるからこそ初めて能力となりますね。
こうして見てきたように、能力とは固定的なものではなく、流動性を持ったものだということがわかります。
ここでもう1つキーワードを出します。
「役に立つ」です。
上に挙げたそれぞれの能力についての見解の中で共通しているのは「役に立つ」「使える」ということです。
それが流動的だという話です。
僕たちは「能力は個人のもので、固定的なものである」
という考え方に支配された世界に生きている。
しかし能力はとても流動的なもの、かつ相対的なもので、
「測る」ことなど本来できないものである。
本来流動的なものを固定的に捉えている。
それは何の為か。
「役に立つかどうか」を見極めるため、
ではないでしょうか。
その時代、社会、考え方の枠組みにおいて「役に立つもの」として本来流動的な「能力」を個人に固定し、無理やりに「測れる」ものにしてしまっている。
それが私たちが生きている現代ではないでしょうか。
そうなると、自分たちを自分たちの手で能力主義から解放するためには、
「能力の個人化」という頑強な鍵をこじ開けることが求められるのではないでしょうか。
能力は個人のものではなく、相手がいて成立するものであり、意味を与えてくれる場が存在しないと成立しない。
そこで初めて、「じゃあ何を使って人を測ればいいんだ」
「いや、そもそも測るのを辞めよう」
という議論に持っていけるのではないでしょうか。
少し難しい話になってしまいました。
僕もまだ整理できていません。
きっと矛盾だらけです。
しかし、文章力という能力も、きっと僕1人だけで完結するものではないはずです。
皆さんや偉大な先人たちの力を借りていければなあと思っています。
小野トロ
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