教育は人材生産工場であっていいのか
僕を教育の世界に誘ったのは、トニー・ワグナーの「未来の学校-テスト教育は限界か-」という本でした。
その内容は「社会のニーズと教育の内容が合致していないから変えるべき」というものでした。
知識を詰め込み受動的に授業を受け、テストでそれを問うような教育ではない、新しい形の教育が必要だ、という内容です。
それは確かにそうなのかもしれません。
大学生だった僕はいたくこの本の内容に感動し、ちょうどその頃「どうやったら社会の様々な問題を解決できるだろうか」と考えていたところだったので、
これだ!と思ったのです。
教育だ。
教育で社会を変えていこう、と。
そのきっかけを与えてくれたこの本と著者にはとても感謝しています。
その気持ちに変化はありません。
しかし、今は少し複雑な思いを抱えています。
それは、この本の主旨であった「社会のニーズと教育の内容の不一致」という論への違和感です。
この本を読んだ当時、そして教育の仕事をするようになった当初は何も違和感を持っていませんでした。
「社会のニーズに沿っていないのは確かにダメだよね」
「市場や企業が必要としている人材を教育は輩出するべきだ」
そう思っていました。
しかし、今は「それは違うのでは?」と思っています。
言わばこれは「教育とは何の為に存在しているのか」という話になります。
教育は世界や国、社会、市場や企業といったものが必要としている人材を輩出するべき。
そう確信している人にとっては、先ほどまでに話した論は至極当然なことに思えるでしょう。
企業や市場が欲している、求めている人材。
そのニーズに沿った人を育てるべき。
その考え方には何の違和感も持たないと思います。
時代が変わったのだから教育も変わるべき。
それもわかります。
しかし、本当にそれで良いのでしょうか。
もちろん、教育という大きな概念から学校という場所に対象を狭めると、
その成り立ちには「国力の増強」が強く影響しています。
軍事力や経済力のために、それらを駆使した国際競争に打ち勝つために、人材を育成し輩出していく必要がある。
その為に学校が作られた。
しかし、成り立ちはそうだとしても、本当に「教育は世のためにあるべき」なのでしょうか。
もう僕が言いたいことはやんわりとわかってきてもらえているでしょうか。
「じゃあ、教育っていったい誰のためのものなの?」
これが僕がこの記事で皆さんに1番問いたいことです。
確かに、「市場のニーズに従って人材を輩出すれば、将来的にはその子の人生が明るいものになるのだからいいじゃないか」
という意見もあるでしょう。
けれど、ニーズに沿った人材を輩出するだけでは、
それはもはや「工場」ではないですか?
「人材生産工場」ですよね?
成り立ちは国のためであったかもしれませんが、
本当に教育はそれでいいんでしょうか。
教育って子どものためのもの、つまりは「その人のため」じゃないんでしょうか?
金儲けや、学校の合格実績、親の自己実現のためではないことは明らかですが、
世のために、という議題に関しては賛成派反対派といると思います。
それでも僕はおかしいと思います。
もしも、市場や国のため、つまりは資本主義のために教育が存在していて、
それなくしては教育というものは成り立たないというのならば、
僕はもう教育なんて無くしてしまったほうが良いと思います。
ただ、今のところはそう結論づけるには早すぎるので、
「そんなはずないよね」と自分に言い聞かせながらこの世界に身を置いています。
煮え切らないところで今回は稿を閉じさせていただきますが、考え続けていきたい、考え続けなければならないテーマだと思っています。
また書きます。
小野トロ
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