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逆算型と積み上げ型。サッカーと思考法の関係性

スポーツライブ版ネットフリックス、DAZN。

僕がとてもお世話になっているこのDAZNで、
昨年現役生活を終えた元サッカー日本代表の内田篤人さんが番組MCを務める番組があります。

「内田篤人のFOOTBALL TIME」

サッカーを最近見始めた人から、コアなサッカーファンまで楽しめる番組になっており、
DAZNの豊富なコンテンツの中でも人気番組の1つだと思います。

この番組内で、MCの内田さんの鹿島アントラーズ時代の先輩である岩政大樹さんがゲストに招かれ、主にサッカーの戦術について語る回があります。

その日は日本代表について、進行の野村アナウンサーと内田さん、岩政さんの3人で語り合っていました。

その中で岩政さんが
日本代表の永遠の課題である「決定力不足」について語られていました。

今回はその内容についてご紹介していこうと思います。

岩政さんが語られていたことをまとめると、

・日本人選手と海外選手との違い=言語の違い
・逆算型の西洋言語と積み上げ型の日本語
・主語の後に様々な修飾語が付いた後に結論が来る日本語
・先に結論を述べた後にそれを説明する言葉が来る西洋言語
・ゴールという結論から出発してそれに辿り着くためにはどうすれば良いかを考え組み立てていく西洋言語脳の海外チーム
・相手を抜いたらどうしよう、サイドを崩したらどうクロスを上げよう、どうシュートを打とう、と積み上げていく日本人選手と日本代表チーム

このようになります。

言語としてどちらが優れているということはありません。
以前の記事でも書いたように、言語にはそれぞれの特性があり、得手不得手があります。

しかし、サッカーがイギリスを母国とする以上は、
言語野の特性においては、すなわち勝利への考え方の癖という側面で考えると、
西洋人のほうが有利に思えます。

抜いた、崩した。
さあどうしよう。
では遅いと岩政さんは言っていましたがまさにその通り。

ことサッカーに関しては、というよりもゴールや得点があるスポーツに関しては、
結論ありきで逆算型で考えていくほうが有利に思えます。

僕たち日本人たちは、母語の特性上、初めから大きなハンデを背負っていると言えます。

ではどうすればいいのか。

これも岩政さんが1つの方向を示してくれていますが、
育成時期の指導、すなわちアマチュアの時点から選手たちの考え方にアプローチしていくしかないですね。

サッカーで言うならば、とりあえずわけもわからず意味やそれをする理由も説明しないままにリフティングやパス練習やシュート練習、走り込みをさせるのではなく、

実践におけるコンセプト、プレーモデルといった大原則、それの共通言語を提示し、
選手たちに実践で考えさせて学ばせていく。

基礎は確かに大事ですが、それがなぜ必要であって、実際の試合のどのようなところで役に立つのか、
それを知ってから基礎練習に取り組むか否かで大きく結果は変わるでしょう。

実戦のシチュエーションが明確に思い浮かべられる練習において、

「トラップができなかった」
「キックの精度を上げないといけない」
「ボールへのインパクトの感覚が掴めていない」

などの具体的な課題がクリアになり、
その上でパス練習やリフティングをすると、
やる気も出るでしょうし、
何より努力の証が見えて楽しいでしょう。

なぜこんな練習をするのか。

この腹落ち感が無いと、選手たちは成長しませんし、
コーチや監督に言われたからやるという悪しき体質が身についてしまいます。

そこにおいて、岩政さんの提唱する「逆算型」の育成はとても理に適っているものだと思います。


さて、僕はこの話を聞いて、何かと似ていると思いました。

PBL(Project Based Learning)の考え方に似ているのです。

課題発見型の学習です。

黒板の前に並んで先生から受動的に知識を授かり、
「それはいつかきっと社会生活で役に立つよ」
と言われながら育つ教育ではなく、

自分たちで身の回りの課題を発見し、プロジェクトを立案し、
その為の知識を能動的に身に付けていく。

言うなれば今流行りの、教育界のトレンドであるあのPBLに、岩政さんの考え方はとても似ています。

僕は、はっきり言ってこの岩政さんの逆算思考、PBLの考え方を全肯定することはできません。

なぜなら、逆算思考は、ゴールのはっきりしているサッカーなどのスポーツ、つまり西洋由来の競技をする上では有利に働くし、有用でしょう。

そして、極限までに実用的であることを求める現代社会において、PBLは有用でしょう。

もちろん僕も、明治・大正期から大きく変わろうとしない日本の教育は、乱暴に言うと「やばい」と思います。

このままではいけないと思います。
しかし、いま流行りのアクティブ・ラーニングやPBLに傾倒してしまうのは、もっと良くないと思います。

「役に立たないと薄々わかっていることを学ぶから子どもたちは勉強が嫌になる」
という状況から、極端に
「役に立つ、実用的なことを学ぶ」へ端から端へ一気に移行すると、
犠牲になってしまうものは確かにあります。

日本の教育のもと、創造的な発明や学問における多大な貢献を果たした人の多くは、
既存の枠組みを嫌い、そこから外れることで何らかの成果を残しました。

けれどそれは、枠があるから。
「創造的でない」状態があるから「創造的」は生まれるのであって、

「みんなが個性的」「みんなが創造的」を目指してしまうと、
そこに待っているのは「誰も個性的ではない世界」ではないでしょうか。

課題を発見するのが好きな人もいれば、
課題を解決するのが好きな人もいるはずです。

時代が、マーケットが、課題発見型の人材を求めているからと言って、
市場原理に従ってそれに見合った人材を輩出するだけでは、
教育現場は人材生産工場になってしまいます。

課題解決型人材生産工場から、
課題発見型人材生産工場にしてしまうだけで良いのでしょうか。

きっと、有用なもの、実用的なものというのは、逆説的ですが「無駄と思われていたもの」「余計だとされて省かれたもの」から生まれることが多いと思います。

実用的なものを作ろう!という旗印のもと、それが生まれることは極めて少ないと思います。

「遊び」が生まれるのは
「窮屈」があるからです。

今の日本の教育は「窮屈が過ぎる」だけであって、
「窮屈」がゼロになってしまうと「遊び」は無くなってしまい、
そこに「創造」の生まれる糊代は無くなってしまいます。

時代は常に振り子のように動き続けるものとは思いますが、
強引に片方に揺り動かしたところで、
そこに待ち受けているのはさらなる反動です。

長々と書き連ねましたが
「みんなで丁度いい塩梅見つけましょうや」
という話です。

それが1番難しいと思いますが‥。

諦めたくないですね。

小野トロ

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