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結論から先に述べよ!は本当に正解?

「結論から先に述べよ」

プレゼン。報告。面接。ディスカッション。

様々な場で言われることですね。

このnoteの場でもそうかもしれません。

「note初心者へのアドバイス」として
「結論を先に書きましょう!」
というものもよく見られますし、僕もnoteを始める際に目にしたことがあります。

とにかく、この「結論を先に」というフレーズは、
現在至るところで聞かれますし、
絶対正義であり、これができないやつは社会ではやっていけないかのように言われています。

今回はこれを疑っていきます。

「結論を先に」は果たしてどこまで正解なのか。
これについて考えていきたいと思います。

この「結論を先に」話法の是非を語る上で大切なのが、
日本語の特性とここでは英語に絞りますが西洋の言語の特性との違いを明らかにすることです。

その上で、その言語に合った文章の組み立て方があり、
ケースに合わせてそれぞれの言語の特性の良さを使い分けていくことが肝要になります。

まずは英語について見ていきましょう。

英語は

AはBである。
なぜなら〜であり、…であり、〇〇だからだ。

という話法ですね。

この話し方、考え方は、既に決まっているもの、勝負がついているものが論題にあるときに強みを発揮します。

最初に「AはBである」と言い切った時点で、シロクロ付いているのであって、
正しいか間違っているかの二者択一でしかないのです。

なので、あらかじめ結論が出ているものに関しては、適している論法となります。

例としてすぐに浮かぶのは裁判の判決文などでしょうか。


次に日本語について見ていきましょう。

日本語は、やれ主語がはっきりしなくて曖昧だとか、
述語が最後に来るので頭でっかちで言いたいことがわからないだとか、

西洋の言語の話者やそれに染まった日本人からは非難されがちですね。

しかし、日本語にも英語にも、得意不得意があるのです。

日本語はその「頭でっかち」と非難される性質によって、
初めは漠然としていたものを徐々に限定していき、明らかにするという「得意技」を持ちます。

答えの無いテーマに対して、
文章や会話、議論の中で答えの輪郭をなぞり、
全体図を明らかにしていくようなものに関しては、
日本語のこの「頭でっかち」のほうが得意なのです。

「探索的」「発見的」「創造的」なテーマに対しては、断然日本語的論法のほうが話は進みやすいはずです。

最初に「〜は」という表現で話の主題を提示し、
次に「〜が」という表現を加えてその主題の領域を限定する。
そしてさらに細かい情報を加えて限定を繰り返していく。

これが日本語的論法であり、クリエイティブな考え方をしていく上で適性を持つ考え方であると言えます。

しかしこの考え方は西洋人、そして戦後しばらく日本を統治することになるアメリカ人などからしたら、
煩わしいことこの上ないでしょう。

そして戦後、GHQの統治が終わり高度成長期を迎え、先進国の仲間入りを果たして現在に至るまでも、
日本という国はアメリカに良くも悪くも大きな影響を受け続けてきました。

その中で、アメリカ式の経済論理も純度100%でないにしろ輸入されていますので、
思考法までもアメリカ、西洋式に染まっていると言えます。

それが今回のお題の「結論を先に」論法なのです。

グローバル化が進み、新自由主義の下では、
英語的話法で物事を考えられない人は淘汰されていく。

それはそうでしょう。

しかし、いくら考え方が西洋式に染まっても、
母語である日本語の特性、構造までは変えられません。

日本人には何でも「世界」「西洋」「アメリカ」などを重んじ、自分たちより進んでいるという考えを根拠なく持つ傾向があると思います。

「海外では…」「アメリカでは…」「北欧では…」「シリコンバレーでは…」
このような枕詞で語られたら、
疑うことなくそれが正しいこと、進んでいることと思い込む節があると思います。

なにも海外ばかり持ち上げるな、日本万歳と言いたいわけではありません。

何事も適地があり、配置次第で効果は変わる。

適地適作をしないと、日本語的な思考法も英語的な思考法もお互いに宝の持ち腐れになってしまう、ということです。

それぞれの言語によって得意分野があるのです。

先に挙げたように、
日本語は答えの無いテーマ
英語は結論の出ているテーマ

にそれぞれ適性を持っているといったように、
それぞれの強みがあるのです。

にも関わらず、英語話者が世界の大多数であり、アメリカの影響を強く受けているからといって、

「結論から先に述べよ」な思考にオートでなってしまうのは、大きな思い込みであり思考停止状態と言えるのではないでしょうか。

普段の自分の生活を振り返ってみてください。

つい、日本語的な論法で考えたほうが良いところでも「結論を先に」となってしまってはいませんか?

それは、西洋の借り物をまとってそれを正しいと信じ込んで思考停止しているだけではないでしょうか。

あるいはあなたは「結論を先に」論法で話ができない人に対して
「頭が悪い認定」をしてはいませんか?

その人が「結論から」の考え方ができずにあなたがその人の伝えたかったことを理解できないのは、
その人が頭が悪いわけではありません。

あなたが色んな話の組み立て方、物の考え方が存在することを念頭に入れていないだけの話です。

少し話が通じないからといって簡単に相手を
「頭が悪い」と決め付けてしまう人は最近多いように思います。

それはきっとAndroid OSとiOSの違いのようなもので、
どちらが優れているというようなものではないでしょう。

あなたがAndroidの使い方とiPhoneの使い方、どちらも知らないからといって、
「こっちは使いづらい、劣っている」というのは、
互いのユーザーにとっては
「あなたが片方の使い方しか知らないからだ」となるでしょう。

すぐに相手との考え方の違いを考えずに「頭悪い」と言ってしまうこと以外にも、
この「結論を先に」論法に偏る日本人の悪いところがあります。

それは「耐えきれない、我慢できない」という現象です。

「結論を先に」が定着しきっているせいで、
本や映画、ドラマや漫画、アニメなどの結末を早く知りたい、
飛ばして先に見たい、ネタバレの記事や動画を見たい、
という気持ちが強い人が多いような気がします。

本の要約動画が流行っているのもこの流れかもしれません。

「ネタバレ全然オッケー」な人が多いのもこれが原因かもしれません。

最後にオチが待っているワクワクよりも、
この後どうなるかを先に知りたい。

オチを待つのを我慢できない、耐えきれない。

これは「結論を先に」があまりにも社会に定着していることの弊害かもしれません。

このことは、仕事柄(塾講師)子どもたちと話すことの多い僕がとても強く感じることで、

この先に何が待っているのか早く知りたい。
答えが何なのか早く知りたい。
という気持ちが強い子どもが多いと感じます。

相手や空間を通して答えを醸成していく過程の楽しみを知らない。

そんな子どもが多いような気がします。

僕たちの世代、20代半ばの若者にも同じ傾向はあると思います。

答えの無い、結論が出ていない、無駄かもしれない、そんなテーマに対して語らうということができない。
或いはそうした状況に慣れていないため不安になってしまい耐えきれない。

未来がわからないのは当たり前のことなのに、それに対して漠然な不安を抱いて苦しんでいる。

その「わからない」に対して気長に寄り道しながら議論していく術を知らない。

こうした状況に陥っていると思います。

このままだと、AIにはできないような
人間だからこそできる創造的な仕事ができる人間は、
育ちづらい環境になってしまうのではないかと危惧しています。


小野トロ

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