歩いて旅したことで電車の有り難さを知った
僕は基本的に電車では席に座りません。
ガラガラの各駅停車などでは流石に座りますが、基本的には座りません。
理由はいくつかあります。
まず、譲るのが面倒だから。
自分が乗ったときに空いていても、どうせその内いっぱいになって譲るのならば、
最初から立っておいて1席空けておけばいい、という考え方です。
次の理由としては、「良いことしたな感」が嫌だからです。
座らない=譲らない。
こうすれば「座ってください」と声を掛ける億劫さからも逃れられますし「良いことしたなお前」という恥ずかしい視線からも逃れることができます。
僕はこの「ええことしたな感」が大嫌いで居心地悪いので、できるだけ席を譲るという行為はしたくありません。
そして最後の理由として、電車のありがたさを知っているからです。
僕の記事を以前から読んでくださっている方や、知人友人の方は知っているかと思いますが、
僕は大学生の頃に「歩き旅」ということをしていました。
文字通り歩きのみで旅をするということで、
飛行機、新幹線、電車、車、バイク、自転車、ヒッチハイク。
あらゆる交通手段を使わずに歩きのみで日本国内を旅していました。
歩いて東海道五十三次制覇と謳って京都から東京まで2週間かけて歩いたり、
大学を休学して歩いて日本一周を敢行したり(未達成)、
色んな所を歩いてきました。
だから身を以て知っているのです。
「電車のありがたさ」を。
新幹線で2時間で行ける京都→東京間を2週間かけて歩いたわけですから、
新幹線のすごさなんて半端ないです。
一度考えてみてください。
ただ立ってるだけで、目的地まで短時間で連れて行ってくれるんですよ?
もちろんお金も払いますし、タクシーと違ってあくまで目的地の近くまでという注釈は付きますが。
それでも自分の足で歩いて行くよりは断然楽です。
もちろん僕はこのことに今になって気付いたわけで、
「電車のありがたさを知るために歩こう」なんて思って歩いたわけではありません。
思わぬ副産物に過ぎません。
このことは更に示唆に富んでいて、
「学びとは最初に決まった目的があって生まれるものとは限らない」
ということです。
電車のありがたさを学ぼう!と思って歩いたわけではないけれど、
それを学ぶことができた。
学びの副次性とでも言いましょうか。
その現象の存在を学びました。
このテキストを読めばこんなことが学べますよ。
この本を読めば不安定な世の中を生き抜く術が学べますよ。
この塾に来ればこんなことが身に付きますよ。
そんな予期可能な、不安定でない知能獲得に、現代社会は偏重しているように思います。
もちろん「これをやればこれが学べる」という見通しも必要でしょう。
しかし、そこには「身を以て」という枕詞は決して付かないはずです。
そして、僕は肌感覚の伴わない学びよりも「身を以て」学ぶことのほうが、
より大きなことを僕たちに教えてくれる気がしています。
この論理で言えば「あなたはこの会社に入ってどんなことを身に着けたいですか?」なんていう採用面接の質問も、実にばかげた質問だと思います。
それは入ってみないとわからないですよね。
親ガチャならぬ「企業ガチャ」もあると言えるのでしょうか。
ただし「企業ガチャ」の場合、
「学歴と言う名の高価な硬貨を入れた人限定」でガチャを回せるなんてこともあるでしょう。
話が逸れましたが、この「話が逸れる」という現象すらも副産物であり、
「ああ、それで言うとこれもこうだね」という新たな気づきも、
脱線の醍醐味ですね。
しかし、脱線ばかりしていても、いつか大事故を起こしてしまうかもしれません。
ここらで終点としましょう。
電車だけに。
小野トロ
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