見出し画像

先生らしさを捨てることが子どもの自主性を育む

あなたにとって、先生らしさとはなんでしょうか?

きっと色々あるでしょう。

思い浮かべてみてください。

あえて僕からは例を挙げませんが、

1人1人に丁寧に、手取り足取り教えてあげる。
生徒間で何かトラブルがあればすぐに駆け付ける。
生徒にわかりやすい話し方で解説して、わからせてあげる。

これらは、俗に「良い先生」とされていますよね。

僕は思います。
そんなの全く良い先生ではない、と。

なぜなら、それこそが「自分で考えることができない子ども」を育てることになるからです。

子どもに何かあるとすぐに駆け付ける。
教室の一角で喧嘩をしている子がいる。
すぐに駆け付けてその場を収める。
叱る、なだめる、謝らせる。

そんなことしなくていいのです。
それは実地で学んでいくべきことだからです。

先生という絶対権力から押し付けられた社会のルールに従う。
幼い頃は身近な大人は親と先生くらいですから、
子どもはそれが「世界のルール」だと思ってしまいます。

自分で考え、学び、選んでいける子どもを育てたいならば、
見守らないといけない。

喧嘩をしていても、勉強がわからずに嘆いていても、
とりあえず制止はしない。答えを教えない。

放任とは違います。
「わかった。何もしなければいいのね。」
それも違います。

「見守り、一線を越えそうになったらストップする」

喧嘩や勉強だけでなく、

ここだけは超えてはいけない、という一線は作っておく。

それを子どもにも明示し、それを超えるようなことがあれば叱ればいいのです。

喧嘩ならば、多少つかみ合いは黙認するとしても、過度の殴り合いや物を使った暴力などが起きそうならば止める。

決して「喧嘩はダメ」などと言ってはいけません。

僕が子どもならこう思います。

「だって、大人だってしょっちゅう喧嘩してるじゃん」

これを言われたら何も言えません。

それに、子どもは喧嘩をすることで、暴力の危険さや人の心を傷つけるということの意味、人との距離の取り方などを学びます。

それらを試行錯誤して実地で学んだ子どもと、
ただ大人からから有無を言わさず押さえつけられ、
「なぜ喧嘩はダメなのか」を経験で学んでいない子ども。

どちらが将来、人の体と心に暴力をふるう可能性が高いと思いますか?

子どもの頃多少悪ガキでも、経験でこれらを学んで育った子どもと、
表面上では「いい子」だけれど、大人から一方的に与えられた答えに従って常に「いい子」を演じ続けてきた子。

後者のほうが、抑圧されてきたものが何かのきっかけで解放されてしまった瞬間、より取り返しのつかないことになるのは目に見えています。

子どもの話から先生の話に戻ると、

冒頭に述べたいわゆる世間的な「良い先生」「熱心な先生」をしているほうが、

実は楽だと思います。

見守る方がずっとしんどい。
エネルギーが要ります。

ルールで縛り付けたり、
困っていたらすぐに手を差し伸べたり、答えを教えたり、

一方的に解説したりするのは、実際すごく楽です。
先生っぽいですしね。

喧嘩していたら、どこでストップをかけるべきか、こわごわと見守らなければならない。しんどいでしょう。

勉強でつまづいている子どもがいる。
答えを教えるのではなく、自分で考えて答えを導き出せるような仕掛けづくりをする。しんどいでしょう。

なんでもしてあげるほうが楽なのです。

見守るのは辛いです。
仕事もしてなさそうに見えますし、
周りからはあいつ怠けてるんじゃないか、と思われるかもしれません。

仕事してる風に見せるには積極的に子どもに介入していくほうがいいでしょう。

根気を持って辛抱強く見守るのは気力的にも体裁的にも大変なエネルギーが要ります。

先生でもそうなのだから、親だとなおさらそうでしょう。

つい言ってしまいたくなる。
つい教えたくなってしまう。

そこをグッとこらえて見守る。
それが本当の先生のあるべき姿だと思います。

教えるのは楽。
見守るのは辛い。

けれど、どちらが子どものためになるか、それはわかりますよね?

親や先生に言われた言葉や、教わって乗り越えたことと、
自分で体験して学んだこと、自分の力で乗り越えたこと。

どちらが今のあなたの力になっていますか?
今一度考えてみてください。


小野トロ

以前の記事へはコチラからどうぞ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?