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「ザ・MNH 〜失敗と挑戦の15年間〜」

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とにかくやってみました。そしてとにかく失敗をしてきました。それこそが今のMNHを作り上げてきた大切なプロセス。MNHのリアルを紹介します。
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記事一覧

『多摩地域のマルシェ、やってください!』

MNHの小澤です。 2010年、JR中央線の三鷹駅から立川駅の、全線が高架化された。 それにともない、高架下に新たなスペースが生まれた。 今では、商業施設や創業支援施設、学生寮、公園などに変わっている。 中央線にゆかりがない人には、想像がつかないかもしないが、中央線はその昔、南北の文化をはっきりと分けるような「境界線」だった。 たとえば、ぼくが高校の通学時に使っていた、武蔵小金井駅。 当時の踏切は、“1時間”も開かなかった!  なかなか通過できないので、渋滞もひどかった

大舘のアメ事業⑥ 一番スケールの大きい挑戦、かつ一番大きい失敗

MNHの小澤です。 こうして、アメの機材一式と修行をしてもらった女性が、秋田・大館市から庄内町に移った。 大館という地での挑戦は、ここで終わった。 あらためてこの挑戦を振り返ってみると、やはりゼロから事業を仕立て上げるのは非常に厳しい、と率直に思う。 アメ屋をやっていた人を引き抜いてくるならまだしも、何もバックボーンがないのに、ゼロから職人を育てるのは、やはり相当大変だ。今やっている玄米デカフェなども、10年やってようやく花開いているくらいなのだから。 さらに大きな敗

大舘のアメ事業⑤ 事業開始の前夜に悲劇は起きた

MNHの小澤です。 秋田・大館市で、消えゆくアメ事業を引き継ぐと決めたぼくら。 物件も買った。機材一式を運びいれた。人材も雇って修行をさせている。 「さて、どうやって改装しようか?」というところで、悲劇は起こった。 ————事業がストップしたのだ。 いや、中止せざるを得なかった、という方が正しいかもしれない。 理由は、ひとことでいえばMNHの経営悪化だ。 ぼくらはちょうどその10月に「縁日家やまがた(*1)」をクローズしたところだった。 「小売店はやはり難しい」とい

大舘のアメ事業④ 難航したアメの企画。出口が見えぬまま…

MNHの小澤です。 秋田・大館市で、消えゆくアメ事業を引き継ぐと決めたぼくらは、工場にする新しい物件も決めた。そして、2015年の夏には機材をそこへ運び入れた。 そこで働いてもらうアメ職人も育成しながら、一方でアメの商品企画も練っていた。 …で、この企画。 これには、ほんっっとうに頭を悩ませた。 前提として、今さら普通のアメの企画をしたところで、市場では勝負はできない。 スーパーに行けば数限りないアメの商品が出回っており、もう飽和状態だ。 一方で、佐久間さんから譲り

大舘のアメ事業③ 消えゆくアメ産業をすくう若者、大募集!

MNHの小澤です。 秋田・大館市で、アメ事業を引き継ぐと決めたぼくらは、希望の物件も手に入れることができた。 その一方で、人材も確保しなければならなかった。 つまり、その工場で働いてくれる「アメ職人」だ。 お伝えしたように、これはMNHの「東北に若者の雇用をつくる株式会社」としての事業だったため、「若者」が携わることを前提としていた。 2015年春。 さっそく社員の募集(*1)を開始すると、3人の若者が集まった。 東北近県から集まった、男性1人・女性2人の計3人だ。

大舘のアメ事業② タイムリミットは夏。絵になる物件を探せ!

MNHの小澤です。 2015年3月。 ぼくらは、秋田・大館市で、消えゆくアメ事業を引き継ぐと決めた。 機械をもらう先の、大舘最後のアメ屋・佐久間さんは、なんと夏に工場を壊してしまうという。 それまでに新物件を見つけて機材一式を運ばねばならないという、絶対的なリミットが突如現れ、うかうかしている時間はもうなかった。 前提として、ぼくらはアメ事業に専念してもらう「人材」を採用しようとしていた。 大館市内にそういった若者はまずいないだろうし(*1)、他から来てもらうのが現実的

大舘のアメ事業① MNH史上最大のプロジェクト始動!

MNHの小澤です。 「これはMNHが始まって以来、最大のプロジェクトになりますよ。本当に、やるんですよね?」 ぼくは会長に何度か確認した。 2015年の桜が咲く前だった。 ————舞台は、秋田県大館市。 と、ここで軽くおさらいをしよう。 ぼくらは「東北に若者の雇用をつくる株式会社」をつくり、庄内町で事業を始めていた。 同時にその秋田支社でも事業を模索していた。 つまり、何か秋田で商品化できるものはないか、と地域資源をあさっていたのである。 そんなときに大館市のアメの

企画した商品を試してみたかった

MNHの小澤です。 「とらやの羊かん」のパロディーとして、「ちょっとしたお詫びに『ねこや』の羊かん」を企画をしたぼくらは、早速、谷中界隈(*1)で物件を探していた。 羊かんはOEMでつくろうとしていたので、売る店は小さくてもいいと思っていた。 特に猫愛あふれるこの谷中商店街は、話題性の面からしても、最高の舞台だった。 なので「一坪店舗」のような形でも、ここに出せたらベストだな、と考えていた(*2)。 また、この事業につき進んだのは、もう一つの動機があった。 そもそもM

ちょっとしたお詫びに「ねこや」の羊かん

MNHの小澤です。 2014年の秋ごろ。この頃のMNHは、工房や小売店を持つことがブームだった(*1)。 その流れで、あるアイデアが上がった。 それが、「ちょっとしたお詫びに『ねこや』の羊かん」という企画だ。 要は『とらやの羊かん』のパロディーである(笑)。とらやの羊かんは本気の謝罪のときの品で、ねこやの羊かんはちょっとした謝罪に使ってほしい。 B級のお詫びの品というストーリーが、肝なのである。 ちなみに当時は東京の谷根千(*2)がブームでもあった。 下町ブームの火付

ビールをつくってその場で飲ませよう

MNHの小澤です。 こうして「工房」をつくろうと思い立ったぼくらは、お酒をつくろうと考えはじめた。 ビールか、ワインあたりか。 ワインづくりもおもしろいと思ったが、ぶどうの調達がネックだった(*1)。 かたやビールづくりは大変ではあるが、設備を用意し、やり方と温度管理さえ守れば、ぼくらのような素人でも取り組めることがわかった。 じゃあビールをつくろう、ということになった。 この2015年頃は、ちょうど「クラフトビール」が注目を集めていた時だった(*2)。ぼくらもご多

そうだ、工房つくろう

MNHの小澤です。 「そうだ、工房つくろう」 どこかのCM(*1)のようだが、ぼくらの中で突如そんなアイデアがわいた。 2015年の1月だった。 それまでのぼくらのやってきた事業は、ソフトウェアに近い開発の仕方だった。 商品企画を立て、OEM(*2)先に製造を依頼し、バイヤーに提案して、売り場で売ってもらう。 つまり、それまでのMNHはハードウェアを持っていない、いわゆる「ファブレスメーカー(*3)」だった。 では、なぜ工房をつくろうと思ったのか? 答えはひとつ、O

フェンシング場をつくるのが夢だった

MNHの小澤です。 「フェンシング場をつくるのが夢だったんだ」   フェンシングの世界大会への出場経験があり、プロ級の腕前を持つMNHの菅会長が言った。 2014年の10月頃だった。 フェンシングは、太田雄貴選手のオリンピックでの活躍が注目され、今でこそ知られてきたスポーツだが、日本ではまだまだマイナーなスポーツである。菅会長は、そんなフェンシングをもっと広めたいと思っていた。 会長の熱い想いを聞き、ちょうど調布の4階建てビルにMNHの事務所を移転するタイミングだったこ

山形のフラッグシップにしたかった

MNHの小澤です。 こうしてはじめた山形の食材雑貨店「縁日家やまがた」では、販売だけでなく、たまにイベントも開催した。 年始には、お客さんやスタッフの家族を呼んで餅つき大会を開いた。知り合いの庄内町の農家さんを呼び、店の一角で農産物を売ってもらったこともあった。日常業務に忙殺されてあまりできなかったが、そのような交流をもっとやってみたかった。 …とまぁ結構楽しんでやっていたものの、この事業の見通しは厳しかった。そして1年足らずで店じまいをすることになった。 改めてこの

山形の食材雑貨店・縁日家やまがたオープン

MNHの小澤です。 2013年末につつじヶ丘の事務所に移転したのもつかの間、半年足らずで、菅会長は調布駅前の大きなビル(*1)の購入を決めていた。 この頃はもう、引っ越しばかりしていた気がする。 ちなみにぼくは、移転には後ろ向きで、4階建てのこんな広いスペースは必要ないと思っていた。 それはさておき、ぼくと会長は、このビルの使い道を延々と考えた。 そして、既に庄内町で事業をはじめて庄内野菜の行商販売もしていたぼくらは、その流れで「山形のアンテナショップのようなお店を、