執着の副産物
この世のありとあらゆる「不安」は、執着の副産物なのかもしれない。
特定の何かを持ってたり、何かに属しているといった安心感に執着することで、それらが失われたらどうしようという不安にも苛まれるようになってしまった。
それは例えば、何も持っていなかった子が、ぬいぐるみを貰ったことで、ぬいぐるみが無くなったらどうしようという不安も一緒に手にしてしまったようなもの。
この世のありとあらゆる「怒り」も、執着の副産物なのかもしれない。
特定の何かに期待することで、その期待が成されなかった時の不足感も味わう羽目になってしまった。
この世のありとあらゆる「悩み」は、この世にどれだけ執着しているかを表すバロメーター。
この世界への執着を手放すほど、静寂で深い安心感が戻ってくるような気がする。
人生で生じるありとあらゆる出来事は、感情をリアリティを持って味わうためのパッケージでしか無くて、本当は出来事の方には実態がないのかもしれない。
僕たちは感情をリアルに、そして強烈に感じるために、飾りとしての出来事を使って、現実を体験してるのかもしれない。
形がない感情そのものでは、楽しめないから。
理由のない不安や、理由のない怒りは、単体としては存在できないのだろうか?
漠然とした不安感を、それっぽい理由(嫌な出来事や苦手な人などのパッケージ)にくっつけることで、現実に強烈なリアリティが生まれているのかもしれない。
それっぽい理由がないと、この世に生きてる感じがしないのだろうか。
そもそも、意識を向けるということが、執着なのかもしれない。
見たくないものは見なければいいのに、どうして見続けようとしてしまうのだろうか?
考えたくないことは考えなければいいのに、どうして考え続けようとしてしまうのだろうか?
安心を感じたい時に、不安なことを解決してからじゃないと心が休まらないと思ってしまうのは、なぜなのか?
なんだかんだ人間は、不安が好きなのか?
いや、そうじゃなくて、不安と安心がそもそも表裏一体なだけなのだろう。
何も持っていない静寂の状態が、本当の豊かさなのかもしれない。