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それでも人生にイエスという
今日はこの本の一文を紹介したいと思う。
夜と霧を書いたV・Eフランクルの本です。
いろいろな意味で、最近心が打ちひしがれていた。そんな時にこの本を手に取った。
「それでも人生にイエスという」
今の私には痛すぎるタイトルだった。
この本を手に取りながら、今の私は自分の人生にイエスなんて絶対にいえないなと強く思った。
毎日、自分を否定して、責めて、苦しめていたからだ。
何を一体どうしたら、この自分を肯定することが出来るのか?
何をどうしたら、この自分の人生にイエスという言葉をかけてあげることが出来るのか?それが私にはなかなかわからない。
わからないと言うよりかは、きっとわかろうとしないと言うのが本音なのだろうと思う。
わからない、わからないではなく、本当は何もかもわかっている。
自分をありのままに肯定してやれない理由も本当は、わかっている。でも、そこから目を背け続けているのは、私だ。
そんな私の今にフランクルのこの本の中にある一文が強烈に刺さった。
自分の可能性が制約されているということが、どうしようもない運命であり、避けられず逃れられない事実であったとしても、その事実に対して、どんな態度をとるか?その事実にどう適応し、その事実にたいしてどう振る舞うか?その運命を自分に課せられた「十字架」としてどう引き受けるかに、生きる意味を見いだすことが出来るのです。
正直、自分の人生に何か意味があるのか?そしてこの社会から逸脱した自分になんの価値があるのかとずっと考えてきた。
今の私はある意味、社会から離れたところで生きている。それは自分を貫くため。
俗世にいたら出来ない、自分の中から湧き上がる創造、これに身を委ね生きることを決めてから、私はこの社会から離れた。
皆と同じ色に染まり、同じ考えを持ち、同じ趣味嗜好で生きていたら、芸術なんて出来ない。
私は、私を貫くために、社会とのつながりを自ら絶った。
でも、なかなか評価されないことに嫌気がさしてきて、何度も自分を諦めようとした。
それが今まさにピークにさしかかっていた。
でも、そんなことを思ってどうにもならないわたしのところにフランクルのこの本が舞い込んできた。
この本を読んでいると、諦めるな、命が切れるその時まで!とその何度も書いている。
それに、引用で使った文には、自分に課せられた運命を、十字架としてどう引き受けるかに生きる意味を見いだすと書いてあった。
私は、自分の創造を止められず、ものを書くことがやめられない。
これはある意味で、私にとっての地獄だと思っていた。
皆に出来ることが出来ずに、私は、皆に出来ないことが出来る。
これは、皆からすると、とてもうらやましく見えるようだが、私の場合は違う。私は皆と同じになる事を求めている。
個性、個性と叫ばれる世の中にあって、個性があることがとても良い事の様に世間では歌われるけれど、この個性も、人が受け入れられない度を超した領域のものになると、何故か、皆それを怖がって避ける。
個性も、極限までいってしまうと、どうやら、恐ろしいものになるようだ。
でも、この強烈な個性が私なら、私はその私という十字架を背負って、それに責任ある態度で適応し、そして振る舞う必要があることをフランクルはこの本の中で教えてくれた。
逃げるな、逃げるな!腐るな!腐るな!自分!とそう毎日自分に言い続けながらも、たまにもう無理だと全てを置きたくなる。
でも、そうじゃない。置いたら最後だ!とフランクルは言う。
置くな!まだまだ戦える!まだ命があるじゃないか!と。
自分の人生を放棄するにはまだ早すぎる。
彼の言葉の何もかもが、今は私の心に刺さりまくった。
苦しくてどうしようもないとき、彼の著作は、その背中をぐっと支えてくれる。そしてもうひと踏ん張り出来るそんな力を与えてくれる。
もし何かに迷ったり、苦しんでいることがる人は、是非ご一読いただきたい。おすすめです。