「学校で嫌われるよ」はやさしさなのか?
ASDの診断があっても、普通級に在籍することはよくあります。1年生になりたてのころは目立たなくても、日に日に【気になる子】になっています。
その中でも、同級生同士は【自分の意図】と【相手の意図】の境界が理解できないことからのトラブルも増えていくでしょう。
そして大人は「このままでは、この子が嫌われてしまう!」と心配します。
では、この子に何が必要なのでしょうか?
❉ 大人との信頼関係を築く
ことは大切
そのためには…
❉ 楽しい時間を一緒にすごす
ことが大切で、
そこから
❉ ルールを教える
❉ 相手の気持ちを代弁する
となりますね。
子どもは、集団を求めていると思います。
仲間と仲良く遊びたい。
それを叶えるには、ある程度のコミュケーションスキルが大切です。
それも、療育。
でも子どもが【かりそめの適応】や自分の特性を目立たなくする【カモフラージュ】をしてまで、集団に属する…のは、やはり苦しくなると思うのです。
そもそもの…今の社会、教育を疑ってみる。
これに、順応することが本当に必要なのか?
もっと、おおらかでよいのではないか?
発達障害と呼ばれる子も、そう呼ばれないでいる子も、同じように優しい。
『嫌われないために』することなんて、あるのかな?
大人として伝えることは、ただの人と人の間で大切なことだけでいい。
認知に働きかける、言葉で伝えるのも、本心なら伝わると思う。
でも、やっぱり身体に働きかけること。
安心できる身体
自他の境界を感じる身体
物ごとの前と後ろが感じられる身体
これも、療育。
ただ、わたしはぜったいに『嫌われないために』療育はしない。
嫌われていいわけでは、ないけれど。
ありのまま。でもちょっとちがう。
やっぱり、発達の順番にそっていく
ただ、それだけ
とってもシンプル
『嫌われないため』じゃない
なんのためでもない
目的的ではないのだな〜。
わかります?(笑)
必要な方に届きますように。