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刑務所の中で飲む「紅茶」とハワイの海辺で飲む「紅茶」


今日は

自由を追い求めているうちは

自由に気づかない


と言うテーマで書いていきます。


私がとあるサラリーマンの男性と話していた時に
思った事です。

男「会社の上司と慰安旅行でハワイに行ったけど
休みの日なのに仕事してるみたいに気遣って
せっかくのバカンスを楽しめた気がしなかった。」

私「そうなんや。なんか刑務所の中で

紅茶飲んでるみたいやな」

そう思い伝えました。

しかし私にもその様な事はないだろうか?と

考えてみると

例えば仕事を辞めて、社会からも人からも

やるべき事からも解放され

自分の為だけに生きる時間を手にしてみると

そんな私の姿をみた人に質問をされたり

働き方を変えたり、働く中に好きやスキルを求めて

社畜を卒業しようとしていきました。

単にニート生活をしているだけの私の姿が

憂鬱な朝に、むしゃくしゃする日に
見た時に、羨ましい気持ちがその人の心の中で
"自由を求める欲求"を育くんでいったんだと思います。

しかし24時間自由な時間があれど

何もやらない人は何もしないし
正社員で店長や部長やらをしながら子育てもして
副業もしている様な狂ったエネルギー体力を
持っている人もいる。

人は時間を手にする事や自由を手にする事を
ゴールにしやすいが

それをどの様に扱える自分なのかが重要で
物語を展開させる為に使うのか
休む為に使うのか
心と向き合う為に使うのか
好きな事だけをやる為に使うのか
哲学の卵を孵化させる為に使うのか
生活習慣病になりながらポテチを食べるのか

自由とは単なる「手段」なのだと
気づきました。

今の自分の生活と未来に自由を手にした自分を
比較することによって
「自由」と言う言葉が映し出す
「神々しさ」も変わるんだと思います。

🧚🏻‍♀️💕🧚🏻‍♀️💕🧚🏻‍♀️💕🧚🏻‍♀️💕🧚🏻‍♀️💕🧚🏻‍♀️💕🧚🏻‍♀️💕🧚🏻‍♀️

なぜそんな事を言うのかと言うと
私自身が自由を扱いきれてないからです。
(扱い切れてないんかーい🍷)

自由を扱う難しさは東京の新宿で
キャンプテントをはってシラフで
都会の空気っておいひい🤤🤤って
平気で寝れて

人間観察が目的でもなく
出会いが目的でもなく
飲み会が目的でもなく
孤独を埋めることが目的でもなく

都会の空気でソロキャンプ🏕️できるくらいの
変人でないと難しいと思います。

何故なら今まで親奴隷から始まり
会社奴隷をやってきたから
急に自分の為だけに与えられた自由を
扱う時、単に廃人化しかねないからです。

世捨て人と廃人化は違って
私にとって世捨て人は競争社会の卒業で
強靭なメンタルがないと難しいと思っていて

私の様に急に自由を手に入れた
ノットクレイジーな人達は
人生の一時休暇程度の自由すらも飼い慣らす前に
廃人化してしまいやすいんじゃないかと思います。

何故なら会社奴隷であった時
人の役に立つ事をしていた時に
様々な複利が盛り込まれてたんです。

例えば、私がマッサージの仕事をしていた時
今日は予約が入ってないし雨やから
きっとこないだろう。1日分の給料くらい
無くなってもいいからこの憂鬱な雨の日は
休みたい〜と思う時、自分1人の事で
かつ自由が効くと給料を失ってでも休んでましたが

集団になると、同僚に迷惑をかけるだとか
お客さんが私の仕事ぶりを楽しみにしていると
言ってくるからとか"給料の為"ではなく
"自分以外の人の為に出るパワー"によって
憂鬱な日も出社できていたんだと思います。

身体を鍛える事が趣味だとしたら
YouTubeでセルフですると無料ですが
お金を払ってジムやスタジオに行く。
もはやアドレナリンを買っている様な物で
誰の為に何の為の趣味なのかを問うと
自分の"好きな事"ではないかもしれません。

「おじだけどマッチョだろ?」と
ホルモンの減少を悟られない様に抗っているのかもしれません。
野生のバッファローが老いたオスだけ
群れから放り出されるので動物の本能的に
集団から求められるスキルや要素を手放す事=死
と感じるので

どれほど"人の役に立てる"か"虚栄心"や"情"
"承認欲求"、"責任感"等は人間にとっての
死なないセキュリティロックなのではないかと
思います。

仕事で立ちたくもないけど立ってると
基礎代謝が上がり生活習慣病の予防になっているし

振りまきたくも無い笑顔を作る事で
幸福ホルモンが出ていたり
驚きたくもない事をオーバーリアクション
してあげる事で顔ヨガをしてシワ予防にもなるし

ダイエット商品の営業話をして
人に痩せるよ。と言ってるとなんだか
自分がお腹が空いてカロリー召喚。
仕事をしてるだけで食欲も湧く。

知らず知らずの中に「健康管理」が自分の力では
なく強制されるからこそ8時間も
突っ立っていられる。

自らの意思で何の利益もなく
8時間突っ立っていれるのは
お坊さんの修行かオリンピックアスリートくらいではないかと思います。

そして仕事を辞めたとしても
〇〇会社で〇〇をやっていました!!と
名刺代わりとして過去の実績を使い古せる
複利が奴隷の中のギフトです。

ビジネスもしない社会から離脱した時や
出社するともれなくある程度の
健康管理もしてくれてしまうと言う複利も
手放した時に

自由に喰われるっっ!!


そう思いました。笑
いや、私は余裕で自由を満喫できる。と言う人は
長期的に体験してみるとどこかの地点で
自由を飼い慣らさなければいけないと
思うと思います。

ディズニーランドで、ひとっこ1人いない
歪さを初回のみならず毎日
どう楽しむかみたいな。

集団から離脱してみた時の心の反応のコントロールと
体のコントロールが必要で
誰も見てない所で背筋を伸ばせる訳もないので
"自由があると虚栄心が働かない"

自由を得た時、こんなにもエゴが
活躍していたのか。
エゴ様のおなーーりぃい。
と思う程自分を律する役回りを担っていたんだな。
と思いました。特に日本人はマナーを家の中でも
強要するのが当たり前だったり、列に並ぶ事に
違和感を覚えないグループ意識が強いので
人にどう思われるかを意識する事=自分を律する
みたいな教育なんじゃないかなと思います。

メンタル的には好きな事なら何時間でもできる!
としてもデジタル機器の中に好きな事があれば
疲労を感じないので眼精疲労や頭痛にもなる程
何時間でもやれてしまう。
自由の中にも制限はあった方が良い、むしろ
制限をするからこそ自由を楽しめるのかもしれません。特殊な身体であれば別ですが。笑

仕事で5日間拘束をされたとしたら週5日
職場まで身体を動かす無料ジムに加え
遠くをぼんやり見つめたくなる疲労を感じる隙間や
家に帰ってリラックスしたいと思う。
安心の場所と戦場を分けているので
不眠症でない限りは家が寝床と認識でき
寝やすいかもしれない。

週に2日家で顔面プラスチックになり
一音も発さず匍匐前進でトイレまで行く
廃人になったとしてもその程度であれば
生活習慣病は深刻化しずらいでしょう。
むしろ休みの日こそストレス発散!
現実逃避にスポーツ!岩盤浴!と

大将!「健康度増し増しの汗だくで!」
とスタミナつけに拍車をかけているやもしれません。

奴隷や不自由の中にも、様々な副産物がある。

と言うことを 仕事を辞めて
誰の役にも立った実感のない、自分の為だけに生き
承認欲求を満たせない環境に
身を置いてみると気づきました。

暇を潰すのが得意な人も、過度に何かを
やりすぎると病気になるので

心に主導権を握らせすぎても
身体が悲鳴をあげますし

思考が主導権を握り
仕事をしたり時間管理をしても
心は物足りないと思うし

自由にはバランス維持と手綱を引く力が
全て己の匙加減になるので
暇を潰す事自体がストレスになり
自由の中でも、もっとお金があれば
暇を潰しやすいのにとか
もっと友達が居れば毎日楽しいのにとか
やっぱり自由を手放そうかとか
自由を自由だと感じられなくなるかもしれません。

身体の循環が滞った時
まるで
"コンビニに入っただけなのに
怖い兄ちゃんたちに囲まれた時"の様に

逃げ場がない感覚で
自分のネガティブ細胞達に
カツアゲされてる気分になります。

何故なら1人で完結している生活だからです。(コミュニティからの自由)

集団で生きるメリットは、自分に何かあった時
助けて貰えるコミュニティであり
たとえそこに仲間意識がなくとも
人が生死を彷徨っていれば、救急車は呼ぶと思います。

それぞれのメリットデメリットがあり

🔴組織に居ると期日やタスク、強制感、支配感
  結果を出す事を求められ、給料は増えないが
  やる事は増えたり数字や現実との戦いなど

🔴個人事業主となれば、社会のサバンナで
 獲物を寄せる香りを放つマーケティング力や
 ブランディング化等、技術力だけでなく
 フラグを立てた場所に大企業に食われない
 新鮮味がないといけない戦いなど

🔴働かなければ集団競技からは
  自由になれるが体と心と自由に
  蝕ままれる可能性がある。
  設定が資本主義になっていて
  スキルを育んだり人の役に立つ=生存できる
  この設定から抜け出せず人の役に立ててる
  実感や求められている承認欲求を得られない
  ことで生きる意味に他人や仕事を
  介在せない力がいる。思考の檻との戦いなど。

何を選択しても、己との戦いから
自由になる事はないのかもしれない。

すべての戦いを辞めると言う事は悟りであり
思考や言語を使って他人も自分も惑わせながら
人生と言うネタ作りをしてその何かに真実みや
果実を見出す。
それらがリアルに感じられるのは
己との戦いがあるから。
戦いを辞めるとこの世が幻想で真実など
ないと気づきたくないのが人間で
気づくと、悟ると、身体を持つ思考を持つ人生を
もつ意味がないとわかるのでまだ遊びたいから
人は目醒めるだけに留まるのではないかなあと思います。

"どこで飲む紅茶も美味しい"事に変わりはなく
そのロケーションに惑わされるだけ。

自由を飼い慣らす事に
景色は関係ないのではないか。

と言う結論に今の所至っています。

散々奴隷の得を推しましたが
もう少し私は自由の中での戦いを
続けていきたいと思います。

おわり。


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