三連休に友人からLINEでお父さんとのツーショット写真が送られて来た。 お父さんの“死ぬまでに故郷に帰りたい”という望みを叶えてあげるべく一泊二日の旅に出かけることは聞いていた。 その故郷の地が、私の住むところと近い県なのだ。 帰りは、うちの近くを高速道路を使ってだけど通る予定で「お父さんがいなければ絶対寄るのに」と言っていた。 近くにいるということで「無事に着いたよ」という連絡を夜、宿泊先からくれて、写真も送ってくれたのだった。 ほほえましい親子のツーショットだった。 そ
母のことも書いてみようと思う。 母は2年くらい前から施設に入っている。 身の回りのことが自分でできる人が入る施設だ。 施設に入ったのは、自ら「ここに入りたい」と希望してのことだ。 施設という集団生活が母に合わないことは、私たち家族にはわかりきっていることで反対した。 施設が悪いわけではなく、そこでの生活で母の中で起きる感情のことが問題なのだ。 それに、経済的にもちょっと無理があるという問題もあった。 話を聞くために母が一人で住む家に行った。 実家がなくなってからは「帰省
毎日がカオス過ぎて、言葉にして整理したいと思ってもなかなかできない。 言葉にしようとすると事件が更新されるので、また言葉にならない。 今日も強烈なのがやってきた。 対処を考える前に結界を張る。 父にも力を貸してくれるようお願いをする。 人は亡くなると便利だ。 いつでもどこでもアクセスできる。 なんのわだかまりもなく力を貸してくれる はずだ。 複雑な父との関係 一見そうだけど、父とのことは、それほど複雑ではない。 関係が薄かっただけだ。 強烈に複雑なのは母とのことだ。
父の死を知ってから、2ヶ月以上が経った。 9月の終わりに内縁関係のHさんにお礼の手紙を書いた。 (9月の初めにHさんから届いた手紙についてはこちら↓) 突然の私からの手紙に、不快な思いもしたかもしれないけど 返事をくれたこと 父の最期の希望を聞いてくれたこと 大変だっただろう自宅での介護と看護をしてくれたこと それらについての感謝を伝えた。 お礼を伝えたいと思いながら、なかなか手紙を書く気持ちになれなかったけど やっと、お礼を伝えられてすっきりした。 会ってみたかった
謝って欲しい! 自分でも驚く強い口調で夫に放ったその言葉は、 私の中の小さな子ども、インナーチャイルドの声だったのだと気づいたのはその数日後。 泣いて叫びたい気持ちが、心の奥の方で蠢いて、昔のことを自分の中で反芻して思い出していた。 怖かったよね と泣いている小さな私に今の私が寄り添う。 すると、私の奥深くに潜んでいた感情が噴き出した。 嗚咽するほど泣いた。 その時に 謝って欲しい! という気持ちも出てきて気づいた。 二十歳の時、記念にプレゼントが欲しいと言って、
先週末、秋分の日だったか、夫と喧嘩した。 原因は些細な事だった。 喧嘩と言っても言い合いをしたわけでもなく、ムッとすることがあって、その場を離れた。 その程度の「ムッ」なら、ちょっと離れていれば、気分は元に戻る。 いつもなら。 それが、一向に気持ちがおさまらずにいたら、何もなかったかのように、夫が台所にやってきて、普通に話し始めた。 我慢ができなくなって 「謝って欲しい!」 と言った。 その口調の強さに自分でびっくりした。 何を? と夫。 そこから少し水掛け論になった
父が亡くなってから、すっかり忘れていたことをふとした時に思い出す というのが続いている。 京都にいるときゃ、しのぶと呼ばれたの 神戸じゃ渚と名乗ったの 突然どうしたのかと思いました? わかった方は、私と同世代、というよりもっと上の方かも。 『昔の名前で出ています』 という小林旭さんの歌です。 父に教えられた歌。 子供が歌う歌じゃないですけどね。 父の声と子供の頃の私の声が脳内で聴こえてきます。 ベッドで横になっている父の横で一緒に歌いながら教えられた記憶。 え、 ベ
夫が、 お父さんは、外で暮らしてたのに、家にお金も入れて、子供たちを学校に行かせて、大事に思ってたんじゃないかな と言う。 父親らしいことは、お金でしかできなかったんだからと、若い頃はあたり前のように思っていたけど、 今になって思うと、不思議に思うことがある。 家 家で一緒に暮らさなかった父だけど、自分が住むことがない私たちの家を、増築、改築、新しい土地への新築を含め、3回家を建てた。 自分が寝泊まりしない家なのに、なんでそんなにお金をかけたんだろうと不思議に思う。
手紙を送って一週間経った頃から、気持ちが落ち込んでいた。 電話やメールでの連絡がないということは、きっと会うつもりがないってことだろうと。 手紙を送ってから10日経った日 返事の手紙が届くような気がした。 夕方、郵便受けを見ると白い封筒が見え、 来た とすぐにわかった。 中には何か書類が入ってるような分厚さだった。 急いで封を切って読む。 私からの手紙を受け取った日付が書いてあり、 そのあとは、父の病気の発覚から亡くなるまでの経緯が日付とともに書いてあった。 2年
父が亡くなる時に住んでた住所を調べるために戸籍の附票を取った。 何のために住所が必要だったかというと、内縁の妻のHさんに連絡する為だった。 相続の関係で父に負債があったかどうかを確認する必要があったのだった。 というのは、手紙を書く口実のようなものだった のかもと今は思う。 亡くなってから一年以上も何の連絡もなかったのだから、負債もなければ遺産もないのだろうとは思っていた。 手紙を書く一番の目的は、内縁の妻Hさんに会って話を聞きたかったのだった。 父がどんな晩年を過
8月はじめに30年会っていなかった父が一年以上前に亡くなっていたことを知った。 その後、父の戸籍の附票を取ったとこまで記事に書いて、それからも色々状況は進んでいるのだけど、その都度、出てくる感情も変わって、ここ数日は大泣きして目を腫らした朝を迎えるというのが続いていた。 この数日は夫不在だったので、気兼ねなく一日中好きなだけ泣くことができた。 その間、猫はずっと別の部屋にいた。 私がそばに行ってもすぐに別の部屋にいなくなった。 そんなことは珍しいし、私が大怪我して動け
前の記事で、子供の頃のアルバムに父の写真が一枚もない と書きました。 子供の頃の分厚く重い何冊もあるアルバムから、母が抜き取ってポケットアルバム2冊になって、父の写真が一枚もなくなくなったのですが、 父の写真を持っていたのを思い出しました。 私の結婚式の写真。 30年会っていなかったのは、結婚式に出席してもらったのが最後 ということなんです。 撮ったことも忘れていたけど、両家の親族揃っての記念写真。 あの人もこの人も亡くなってる。 そして、当たり前だけど、父も母も若い!
昨日は、父が怒鳴ったり、という 昔の話を書いたけど 常にそういう人だったわけではなく 母が一方的に弱い立場というのでもなく 思い返すときっかけは母の発言や態度にあったかもしれない と、母のことがよくわかるようになって思うようになった。 父がキレやすい人だった というのはあったと思うけど。 子供の頃からずっと母がかわいそうと思って育って来たけど、 何年もかけて、その呪縛みたいなものが解けて 父もこんな気持ちだったのかな と思うことが今はよくある。 そういう気持ちになったの
父が亡くなる前に住んでいた住所を確認するために戸籍の附票を取り寄せた。 戸籍の附票を取るまでの前回の話はこちら。 附票が届く前に、兄がある人から聞いて住所がわかった。 だったら早く聞いてよ ってことだけど 附票を取るために、父の戸籍を取って色々見れたのは良かった。 父が亡くなった時間や届け人が書いてあったのも、知れて良かったし、 戸籍は母と結婚してからのものを取ったので 母の両親、つまり私の祖父母の名前が載っていた。 久しぶりに見る名前だった。 それに、父と母が離婚した
父の内縁の妻Hさんと連絡を取るために 父が最期にどこに住んでいたのかを調べることに。 前回の弁護士さんとの話はこちら。 父の戸籍の附票を取ったらどうですか と弁護士さんからアドバイスをもらった。 戸籍の附票は、本籍がある役所で取る事ができる。 が、父の本籍は? 本籍は自由に変えられるので、変わっている場合もある。 そもそも、私が結婚する前の本籍がどこだったのか、実家も引っ越しているし、覚えていない。 附票に辿り着くまでの手続きは、私の住民票がある市役所の窓口で相談した
兄夫婦と私たち夫婦の家族会議を経て、手紙の差出人である弁護士さんに連絡することに。 弁護士さんには、夫が電話をかける事になっていたけど、 相続人は兄と私なので、 私も電話に出た方がいいという事になり、 弁護士さんには最初に断って、スピーカーで夫と私2人で話をさせてもらった。 この電話で分かったことは ①弁護士さんは父と直接連絡を取っていた ②父は相続分を譲渡する意思を伝えていた ③父が亡くなったことを知らせる手紙を弁護士さんに送ったのが誰かはわからない ④父の住んでた住所