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私にとっての仕事とお金(3)

自分の仕事について、来た道を書いている。
これはその3回目だ。

前回書いたように、最初のプロジェクトが破綻してチームが解散した。1999年2月。私は26歳だった。

だんだんこのへんから当時の記憶が曖昧になっていく。

20代後半から30歳半ばまで、仕事に関しては暗黒時代、どん底だった。

友達との食事や気楽な旅行。余るほどの自由なひとり時間。楽しいことはたくさん日常にあったけれど、仕事について複雑な気持ちをいつも抱いていた私は、不幸感が強かった。

あの頃の私は、今よりもずっと冴えない顔をしていたに違いない。

仕事に対する記憶がうっすらしているのは、辛い思いを薄めたくて、わざと感度を下げて生きていたのかもしれないと思うほどだ。

何をやっていたのか思い出すために、職務経歴書を眺めてみた。
SEはいつどの客先に行くかわからないので、職務経歴書を常に更新しているものである。

眺めてみると、あっという間だったと感じたプロジェクトが案外数年経過していたり、永久に続くかと思っていたプロジェクトが実はごく短期間だったり、時間の感覚が実態とズレていることに気づく。

2つ目のプロジェクトはC/Sシステム

プログラムもろくに書けないまま次のプロジェクトに入ったのが1999年2月だった。

最初に開発部門に異動したときに夢に描いていたWindows系の開発だった。クライアント/サーバーのシステムの仕事だった。

所属として渋谷の本社に戻れたことも、メインフレームに戻った感じがしてうれしかった気がする。今ではまったく気にしなくなったが、当時は所属や業務内容の「見栄え」を気にしていたんだなと思う。

しかし、ときめきは一瞬で消えた。

次の仕事は客先に常駐して進める請負開発で、チームは5名程度だった。

わたしも1つの機能を任されたが、まったく完成しないし、完成する見込みも立たない。

「すみません、期間までに終わりそうもありません。」と、リーダーとサブリーダーに報告した。
関西から来たサブリーダーが、「なんでこんなのもできへんの。信じられへんわ」とリーダーに毒づいているのが聞こえた。

辛くなって、その会社が入っているビルの中をウロウロした。
建物の中央に高い吹き抜けがあるビルで、上から光が差して、真ん中の床や木々を照らしている。商業施設ではない建物の平日の人影はまばらで、光を見ながら涙が滲んだ。

一方で陰口だけ叩くサブリーダーに腹も立った。

渋谷の上司に電話をかけ相談した。サブリーダーが叱責され、彼と私の席は離されることになった。
今思うと、私の仕事の進め方もひどいが、当時はこれが精一杯だったと思う。理不尽だと思ったらすぐ反発せよと、心の奥で叫んでいたのだ。

このプロジェクトでは面白いこともあった。

バグの対処に私が困っていたら、客先の担当者が「こっそり僕がやっておいてあげるよ」と直してくれた。その人は後日、わたしを指名して仕事をお願いしたいとメールもくれた。

また更に数年後、駅でばったり会ってコーヒーをご馳走になったりした。「個人で指名するのは断られたよ〜」とニコニコ笑う。まさか下心ではないと思うが、その人にとって私の何が良かったのだろう。

協力会社のK君との友情も楽しかった。

自分のアパートからその職場まではJRと私鉄を乗り換えないといけないので、乗換駅までよく彼と一緒に帰った。

道すがら「女性らしさを出さないで話してくれるのがいい。僕もあなたを女性とは思っていませんよ。」と言われた。何となくうれしい言葉だったので覚えている。

何をどうやってその仕事を終わらせたかはわからないが、数ヶ月後に何とかプロジェクトは完了して、チームは解散した。

そしてまた別の仕事にアサインされた。

3つ目はWEBの仕事


次はUNIXで動作する大型のWebシステム開発だった。

1999年後半、まだWebも一般にはまだ珍しく、そのプロジェクトは社内では花形でもあった。人数が足りず、追加要員として入れられたのである。

いわゆる火が吹いた状態のそのプロジェクトで、毎晩22時過ぎまで会社に残った。疲れて会社にデッキチェアを出してもらって寝たり、終電がなくなってタクシーで帰宅したりすることも何度もあった。朝起きれず、リーダーから電話がかかってきて起きたら昼の14時過ぎだったこともある。

この仕事は辛いことと楽しいことが一度にあった仕事でもあった。

チームに協力会社から来た面白い人がいた。

ドレッドヘアで音楽をやっているというSさん。見た目は迫力があるけれど、とても知的で、仕事ができる。主力でもあり、チームのムードメーカーでもあるその人のおかげで、チームには常に笑いがあった。

仕事の合間に若手メンバーとSさんとでチャットでくだらないことを言い合ったりもした。

個人的にも親しくなり、渋谷でお茶をしたり、一緒に中古のレコード屋をのぞいたりした。奥さんと仲が良いというのも素敵に思えて、兄のように慕っていた。

Sさんは頭の回転がとても早かった。意思も強く、プログラミングだけでなく、コミュニケーションスキルも高く、優しい。高校中退で、学歴の高い兄とは不仲だと言っていた。



学歴コンプレックス

この頃、わたしは自分の学歴がうらめしかった。

幼稚園から高校までずっと「地元のエリート校」と呼ばれる学校だった。幼稚園から5回の受験をすべて合格した。

大学も当時は難易度が高かったが、それほど苦もなく通ってしまった。実際に社会に出てからも、年配の人には私の出身大学はとてもうけが良かった。

社長室時代に社内報の文章を褒めてくれた顧問にも出身大学を質問された。答えると、「ああ、やっぱりね。あなたはここに合わないよ」と言われた。その人なりの褒め言葉だったのだと思う。

学校時代は、思春期の悩み、友人関係や恋愛の悩み、自我など、若い悩みはたくさんあったけれど、頭脳を使うことについて「困った」と思ったことは正直経験がなかった。

しかし、システム開発の道に進んで、わたしは自分の学歴がまったく役に立たないと思った。役に立たないどころか、10代のすべてが無駄に思えた。

頭が良い、頭が良い、と子供の時に言われても、実際のわたしはこんなに馬鹿だ。
人が10分考えればわかることが1時間考えてもわからないのだから。

開発に入ってから「この人はすごい」と思う人は決して学歴が高くない。

尊敬するSさんは高校すら卒業していないし、同じチームでもう一人のエースのYさんも大学はいわゆる普通の大学である。

Yさんは難易度が高いシステムの根幹部分をほとんど1人で作り上げてしまった。しかもバグもなく、動作も正確だった。かつ、とてもプログラムの可読性が高くて見やすい。明瞭な頭脳そのままに、話し方も爽やかで、わかりやすい人だった。

本当に頭がいい人は、有名大学や高校を出なくてもこんなに切れ味が鋭く、論理が明快で、難解な仕組みもあっという間に組み立ててしまう。

私は完全に「逆学歴コンプレックス」に陥っていた。

学歴不信、エリート不信の気持ちは、実家に帰ると母に恨み言を言うほどだった。

母はわたしが高校3年の時点で記憶が止まっている。しかも母は、私がそれほど一生懸命勉強しなくても成績が良かったのが自慢である。

子供が20代になっても、未だに同級生の噂を始める母。他者との比較でしか自分の子供をよく言わないように見える母を、当時は寂しい人だと思った。

帰省のたびにいらついて、「○○高校を出ようと、○○大学を出ようと、何の役にも立んとよ!」と毒づいたりした。

低いままのプログラミングスキル

コンプレックスの原因は一つ。私のプログラミングスキルが低空飛行、絶望的な状態のままだったからだ。

ある日、私の担当していた機能で大きなバグ(不具合)が発生した。

その日もチームメンバーは夜10時ぐらいまで残っていた。リーダーが私のところに来て「申し訳ないけど、このバグが修正できるまで帰らないでほしい」と言った。

結局、その日は夜2時過ぎまで残った。

他のメンバーは帰宅していた。1人でパソコンの画面を見ていると、向こうで声がする。パーテーションで区切ったところで客先とリーダーやプロジェクトマネージャーが音声会議をしていた。私の出したバグが問題になり、客に追及を受けているのである。

プロジェクトが終わる頃、リーダーから始末書を書いてほしいと言われた。どうしてこれほどバグを出したのか、理由と対策を分析をせよと。

そんなものがわかるなら苦労はしない。あの始末書は誰向けだったのだろう。客先向けなのか、上司向けなのか。

今思えば、やれることはたくさんあったはずだ。でも手らしい手を打たないまま、つまり何の努力もしないまま、「これは私に才能がないからだ」と決めつけていた。

学校時代にがむしゃらに努力するタイプでなかった私は、世の中の人はすべて天から与えられた才能だけで生きている、逆に才能がなければ打開する道はないと、真面目に思っていたのである。

そんな個人的には複雑な思いを抱えつつも、プロジェクト全体としては成功に終わったのだと思う。

保守契約も継続したし、その仕組みを使って別のサービスも立ち上げてほしいという依頼があった。

このプロジェクトは、私の中で自己肯定感が更に下がるきっかけでもあったが、チームの人たちとの単純なおしゃべりがあり、楽しい時期でもあった。

しかしここから、仕事の合間にあった「楽しい」と感じる気持ちが、どんどん薄れる状態になっていく。

仕事を取り巻く環境の中で、自分の能力以外の問題も生じるようになっていったからだ。

に続く。


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