2.薄いカーディガン、分厚い双眼鏡:「好きなページはありますか。」ショートストーリー集
あの日買うことができなかった薄手のカーディガンがそろそろ必要になってきた。
夏休みが終わり2週間が経とうとしている。夕暮れは空を染めるのを焦り、わたし達は急かされるように日々を畳んでいく。みんなが狭い出口に向かって押しかけているみたいな感覚をおぼえながらも「どこか」「何か」に向かわなければならないと言われるがままに日々を処理していく。
それでも、わたしだけの夏はまだ終わっていない。いやむしろ、今日からがわたしの夏まっさかり。昨日遅ればせながら従兄弟に出した手紙にも、思い切り「暑中見舞い」と書いてやった。9月も半分が過ぎてしまったというのにね。従兄弟はきっと「バカだなぁ」って思うんだろうな。
でもこれは、わたしなりの革命「その一」。
***
あの日カーディガンを買うことができなかったのは、折悪しく黒木先輩に会ってしまったからだ。いや、うん、ここは「運良く」と言うべきなのかもしれない。
とにかく、服を買いに行こうとしていたからまともな格好をしていて良かった。このところボンベルタは人気が少ないから、ちょっと油断すると犬の散歩にでも出かけるみたいな格好のまま買い物に行っちゃうんだ。うち、べつに犬はいないんだけれど。
わたしはまぁそれなりの格好をして、それなりの表情で、それなりの店に入ろうとしていた。なんの変哲もない夏休み後半の、夏課外授業がない平日の夕方4時のこと。視界の端に黒木先輩が映った。一度映ってしまった先輩はみるみる大きくなって、みるみる近づいてきた。というのは本当のところ違って、わたしが近づいていったのかもしれない。でももう今となってはどうでもいい。
革命はもう始まっているんだから。
「こ、こんにちは」ってわたしは言った。夕方の4時に、ばかみたいに大きな声でそう言ったの。頭が小さなかわいいセキセイインコだってもっとマシな挨拶ができたかもしれないな、って今なら思う。でも先輩はサラリと笑って「こんにちは」って返してくれた。そういうところ好きだなって、なんだか感心しちゃった。
黒木先輩のフルネームは黒木充って言うんだけど、女の子にいてもいいくらいの可憐な感じがする名前のとおり、顔立ちもやさしくて肩幅もちょうどよくて、かといって色が白すぎる「痩せぎす」な感じでもなくて、最近はやりのグレートティーチャーオニヅカみたいに乱暴でもない。
わたしが黒木先輩を初めて好きになったのは、一年生のときの部活新歓でテニス部を見学したときだった。他の先輩たちが窮屈そうに精一杯の力でよいしょよいしょと片手のバックハンドを打っているのとちょっと違って、黒木先輩は両手バックで軽々とボールを叩いていた。「カーン」という甲高い打球音を聞いていたら「わたしの高校生活はいいものになるだろうな」って思えちゃったくらいに、それは軽やかで涼しげなテニスだった。
そして相手がサービスを打つときに黒木先輩は両手でテニスラケットをくるくるっと回すんだけど、わたしはその指先の動きまでしっかりと見届けちゃったな。右にくるくる、左にくるくる、ステップ、カーン。ボールは「ししおどし」みたいな音を立てて打ち返されて、相手のコートにぴしゃっと刺さる。
わたしはその様子を教室やグラウンドの端からただただじっと見つめ続けるために、中学校から続けていたテニスを辞め、帰宅部生になった。同じコートにいたら球拾いとかランニングとかそういう一年生的洗礼のせいで、ずっと先輩を見つめていることができなくなってしまうから。
わたしもいつかは「黒木先輩」じゃなくて、周りの2年生のみんなみたいに「充さん」って呼んでみたいけれど、ちょっとそういうのって簡単じゃない。
「みっちー」って気軽に呼んでいる3年生のけっこう美人な先輩たちを見かけると「ちょっとちょっと、そんな気軽な呼び方で黒木先輩を呼びつけんでくださいよ」って止めて入りたくなっちゃう。
そりゃあ高校の中が黒木だらけで「みちる」とか「みっちー」って呼ばなくちゃ誰が誰だかわからないのはわかるんだけれど、ちょっとそういうのって簡単じゃない。わたしだっておかしな子だと思われたくないから本当にそういうことをするわけはないけれど、とにかくそうやって黒木先輩をないがしろにされるのは好きじゃない。
わたしに黒木先輩の周りの人をどうこう言う権利があるのかないのかといえば、ないと思う。なんと言ったってわたしは高校に入ってから2年生の夏休みが後半に差し掛かるまで、一度たりとも先輩と話したことがないんだから。先輩はテニスコートにいて、わたしは誰もいない教室の窓から双眼鏡で先輩の「くるくる」している手元やフォームをみるだけ。先輩の打ったボールがわたしのほうへ転がってくることもなければ、声をかけられることもない。
それでも、わたしはわたしだけの特別席から先輩をみつめていられる。
だからわたしがその日の夕方4時、ボンベルタへカーディガンを買いに行ったときに犬の散歩よりかはいくらかマシな格好をして黒木先輩に会うことができたのは、あってはならない出来事でもあり、なくてはならない出来事だった。
それは偶然的だし宿命的で、しかも決定的で革命的な出来事だった。
もちろん恥ずかしくてどうしたらいいかわかんなかったんだけれど、わたしはその瞬間のために毎日毎日誰もいない教室でカツサンドみたいに分厚い双眼鏡を握りしめていたんだ、っていう気にもなれたの。
そんな黒木先輩が、会話の糸口をつくってくれた。
「河野は何してんの?」
「ちょっと買い物に来てました、来てます」
「そこの服?」
「あ、はい。いえその、服屋さんはちょっと覗いてただけで、本を買いにきたんです」
「へぇ、本か」
「黒木先輩はなにか買いにきたんですか?」
「うん、俺はまあ、ぶらぶら」
わたしの名前って「河野」って言うんだけれど、先輩が「かわの」じゃなくて「こうの」って呼んでくれたのが嬉しかったな。それって、わたしのことを「かわの」じゃなくて「こうの」として知ってくれてたってことだもんね。
二分の一の偶然じゃないかと言われればそうなんだけれど、やっぱり大切だと思う。そしてわたしは黒木先輩からきちんと「こうの」って呼ばれたことで浮ついて、カーディガンのことなんて頭の中からすっぽりと消し去っちゃった。そんなもの初めから知りません、この世にはカーディガンも秋も冬も存在しません、っていう風に。
とか言いながら実は、わたしはこの時けっこう冷静で、ある計画を思いついてたんだ。だってわたしのほうでは、毎日毎日練習試合のスコアだってばっちり記憶しちゃうくらいに黒木先輩のテニスを見つめていたんだから。だから、わたしはこの計画を「思いついた」というより、前々から「そうなりたいと願っていた」のかもしれないな。って、今なら思うこともできる。
その計画はね、カーディガンを犠牲にしてまで掴み取った革命的な会話を、一回きりのものとして終わらせないための作戦だった。だってそうでもしないと、わたしにとってけっこう大事な買い物だったカーディガンも浮かばれない。いま実際、そのせいでわたしは寒い思いをしているわけだしね。
「ぶらぶら」って言う黒木先輩を見て、わたしはちょっとだけ「この人はわたしとお話ししたいんじゃないかな」って思ったの。そういうのって自信過剰だって笑われるかもしれない。でもなんと言ったって、その時のわたしは一晩中ぐっすりと安眠したばかりのジャンガリアンハムスターみたいにパチリとした意識と決意で「このチャンスを掴むんだ」って思ってたんだ。もうそれは「キリンとサイは違う生き物です」というくらいに明らかだった。「インドゾウとアフリカゾウの違いを言い当てなさい」みたいな難しい問題じゃなくて、もう、すごぉく簡単なことだったというわけ。
だからわたしは、先輩にある一つの質問をしてみたの。
「先輩、好きな本ってありますか?」
(どうだ、これがわたしの渾身のファースト・サーブ。)
「まぁ、最近は受験もあって忙しいけれどちょっと前は色々と」
(そりゃそうだ。先輩は三年生だもの。)
「受験、大変ですよね。すごいです。それで色々ってどんなですか?」
「ん、そうだな、冒険をする話とかが多かったかな。『鉄道員』みたいなのは苦手だった。正直俺には、あんまりわからんかった」
(『鉄道員』を知ってるってことは、ベストセラーも読んだりするんだ。)
「冒険!冒険ですよね。わたしも冒険の話が好きなんです。というかいま、持ってます。このカバンにいま」
(大丈夫、この物語は誰にだってつながるはず。)
こんな話をしながらちょっと通路の脇の方に寄っていたわたしたちの傍を、同じ高校の女の子たちが『夜空ノムコウ』を口ずさみながら通り過ぎていった。知っている子だったかもしれないし、知らない子だったかもしれない。そんなことはわたしの革命的計画には関係ないから、見向きもしなかった。
わたしはカバンの中からマイルズ・イェールが書いた『変身記』の文庫版を取り出して、黒木先輩に手渡した。わたしはいつもお守りみたいにその文庫本を持ち歩いていたんだけれど、しっかりとご利益があったというわけ。何の目的がなくたってなんとなしにカバンの中に入れておけるから、わたしは文庫本が大好き。そしてそういう何気ないピースが、革命には効いてくるんだね。
「これ、知ってますか?」とわたしが訊くと、先輩はうーんと首をかしげた。知らないみたいだった。
「外国のファンタジーなんですけれど、冒険要素たっぷりなんです。出だしから村がひとつ焼かれてしまったり、旅に出た後はいろんな異国の仲間と出会ったり・・・。あ、でもあんまり喋らないほうがいいかも。とにかく読んでほしいなって。あの、その、よければってことなんですけれど。これ新しい本なんです。最近文庫版になったばかりで、でもわたしがまだ読んでないかというとそんなことはなくてその、うちには前から買ってあるハード本があるから大丈夫なんです。だからつまりその、よければってことなんですけど」
馬に乗ったことがないからよくわからないんだけれど、わたしはこの時、話の「手綱」みたいなものの扱い方がわからなくなっちゃってたと思うな。ちょっとアタマのネジがとれちゃった人だとは思われずにギリギリ持ちこたえた(だからこそ、いまわたしはこうして教室で先輩を待っている)と思うけれど、すごく早口になっていて、服のなかが全体ぐっしょりと濡れてしまっていた。
カーディガンなんて、いるもんか。
黒木先輩は滑車を回すゴールデンハムスターみたいに慌ただしいわたしの喋りかたを笑ったりなんかしないで、ただ「ありがとう」って言ってくれた。そういうところ好きだな。ほんとうに、そういうところが好きだな。
「こちらこそありがとうございます」って、わたしはなんだか他人行儀な返事をしちゃっていた。もちろん他人ではあるんだけれど、黒木先輩とわたしは同じ高校の一つ違いで、イェールの本まで貸し借りしちゃってるんだから。もう他人じゃないって思ってもいいよね。
***
「ありがとうございました!」
駆け足で過ぎていく夕暮れの時間をさらに急き立てるみたいに、部活終わりの挨拶が校庭に響く。
野太いきちきちっとした声が野球部、ちょっと間延びした「俺たちかっこいいだろ」っていうのがサッカー部、バスケ部やバトミントン部の声は体育館だから聞こえない。
黒木先輩が副主将を務めているテニス部は、かえるの歌の輪唱みたいにバラバラな「あ~り~が~と~う~ご~ざ~い~ま~す」だ。ちょっと、どうにかしたほうがいいと思うな。
もうすぐ黒木先輩が教室に来るんだって思うとわたしはざわついた。風のない冬のさむいさむい日の静かな池に一握りの砂利を投げ込んだみたいに、ざわざわと心の水面がうごめいた。誰もいない教室で、立って待つべきか座って待つべきか、座って待っていたら不遜なやつだと思われるんじゃないかとか、そういう辿りつくべき場所のないぐるぐる思考がわたしを取り囲んだ。
だからわたしは『変身記』の好きなページを開いて読み始めた。家から持ってきたハード版の、わたしが好きなページ。
こころを落ち着けるには、お気に入りの本のお気に入りの箇所を開くのが一番だ。
⚔⚔⚔
⚔⚔⚔
やっぱり、この旅の始まりの場面はわたしの好きなページだな。15歳の男の子二人がこれから頼る人もなく旅立ちを迎えるのってどきどきするし、謎めいた兄アデルとその許嫁の死(その結末を、もちろんわたしは知っているんだけれど)もスリリングだ。
『変身記』はすごぉく古い本だけれど、今でも学校の図書館なんかには必ず置かれている定番のファンタジーだ。何年経っても色あせないこの物語は、何度読んでも「もしかしたら今回はまったく別の物語が始まるのかもしれない」という気にさせてくれる。
わたしにも、この物語の登場人物たちみたいに「ピロ」が相棒としていてくれたらいいのに、と思う。人が生まれた時にどこからともなくやってきて人生を共にするピロ。人が死んだら、ふわりと光の粒になって消えてしまう。ピロたちと人間たちは、友情や恋愛やそんなものを超えた関係なんだろうな。
「友情や恋愛やそんなものを超えた関係」という自分の頭の中で喋った言葉に、わたしはほれぼれしちゃったな。それは革命的で、そのときのわたしにはいくらか濃い現実味が感じられる言葉だった。
『変身記』をぱたんと閉じると同時に、廊下から軽やかに足音が聞こえてきた。
パタンパタン、パタパタパタタン、パタパタタン。
右にくるくる、左にくるくる、ステップ、カーン。
黒木先輩がこの教室に着いたら、わたしは余裕たっぷりの顔で文庫本を返してもらう。「涼しくなりましたね」とかなんとか言いながらちょっと片手でペンを弄びつつ、それでいて気取りのない雰囲気を演出するんだ。
先輩はきっと「ありがとう、とても面白かった」って言うだろうな。
そこでわたしはカーンと会話のボールを打ち返す。そこからラリーがずっとずっと続いていくように、とびきり綺麗でゆったりとしたフォームでシャープな放物線を描くリターンを黒木先輩に届けるんだ。
「好きなページはありますか」
ねぇ先輩。わたし、またテニスをはじめてみようかな。
そうしよう。中学時代のテニスラケットをまた手入れして、先輩とテニスをしにいこう。そういう風に仕向けたっていいし、わたしから誘ったっていい。
革命なのだ。
わたしの革命に、薄いカーディガンなんて必要ないんだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?