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日本文化はどこから生まれたのか?―折口信夫【百人百問#022】

一人旅行があまり好きではない。
その土地の風景が旅行ガイドブック通りだったと、指差し確認して回ってしまうのが原因だと思う。工場の点検作業のように機械的でなんの感慨もわかないまま、早く家に帰りたくなってしまう。どうも自由気ままに楽しむ、ということが苦手らしい。

だからこそ、わざわざ一人で1週間ほど奈良に滞在したことはすごく覚えている。ちょうど平成から令和に変わるゴールデンウィークあたりだった。なぜ奈良かというと、当麻寺(たいまでら)に言ってみたかったからだ。

JR東海が「いま、ふたたびの奈良へ」というキャッチコピーのCMで映し出していたのが当麻寺だった。がしかし、そのCMで行きたくなったわけではなく、折口信夫の『死者の書』を知ってから、どうしても行きたくなったからだ。

厳密には折口の『死者の書』を原作に、マンガ家の近藤ようこさんが描いた『死者の書』を読んだことがきっかけだった。

ずっと折口信夫という人のことは気になっていた。
松岡正剛のもとで働いていたときに折口に触れる機会がたくさんあったからだ。安藤礼二さんとともに出雲で企業研修を開催し、折口がイメージした古代に触れたこともあったし、折口の最後の弟子でもある岡野弘彦さんの言葉を直接聞く機会もあった。能楽師の安田登さんが『死者の書』を朗読する姿を間近で見たこともあったし、小説家の赤坂真理さんは「『死者の書』はうっとりするほどの恋愛小説だ」と話していたのも聞いていた。

古代、出雲、マレビト、死者の書・・・などと断片的に聞きかじっていたものの、いったい何を成した人物なのかは不勉強なままだった。その折に近藤ようこさんのマンガを知り、ここからなら入れると思い、読んでみたのだった。

『死者の書』は、まさに死者の目覚めから始まる。

彼(か)の人の眠りは、徐(しず)かに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの澱(よど)んでいるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。
した した した。耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくような暗闇の中で、おのずと睫(まつげ)と睫とが離れて来る。

折口信夫『死者の書』p.7

「した、した、した」という水の垂れる音とともに、死者が目覚め、想い人へ呼びかける場面から始まる。この小説の読み取りにくさは、死者の時間軸と現在が交錯するところにある。

メインの舞台は平安時代の8世紀ごろのことで、主人公は藤原南家の姫・郎女(いらつめ)である。後世に中将姫とも呼ばれ、ツムラの婦人薬である「中将湯」のもとになった人物だ。

郎女はある日、神隠しにあってしまう。
館から姿を消した郎女が現れたのは、二上山の麓にある当麻寺だった。女人禁制のその場所に現れた郎女と同じ部屋には、語り部の老婆がいた。

100年前のこの地に大津皇子がいたこと、彼は耳面刀自(みみものとじ)を想っていながら、謀反の罪で非業の死を遂げたことなどが、老婆によって語られる。さらに、この耳面刀自とは、郎女の祖父の叔母であることが明かされる。

そして、この物語は郎女と100年前の大津皇子との時空を超えた恋物語として進んでいく。まるで『ふしぎ遊戯』のごとき、少女マンガの転生モノのような展開である。これが赤坂真理が言ったことだった。

そもそも大津皇子は不運の皇子だった。
天武天皇の第3皇子として、有力な後継者だったものの、皇太子である草壁皇子に謀反の罪をでっち上げられ、自害に追いやられた。その場所がこの二上山だった。大津皇子の無念が「した、した、した」の音とともに目覚めたのだった。

死者が残した念と現世人が出会うのは能のテンプレートである。廃れた寺や井戸で死者が舞い踊る能楽の世界を折口は『死者の書』で描いた。複式夢幻能のごとく、死者と生者の時間が交差する。

さらに老婆は天若日子(あめのわかひこ)についても語る。
天若日子は『古事記』に登場する神のひとりで、天照大神によって中つ国を平定するように使わされたが、出雲にいったまま妻を娶り、使命を全うしなかった。さらには高天原からの使者であるキジを射殺したことで、矢を射返されて殺されてしまう。

天若日子は恋に溺れて使命を放棄し、その罪によって亡くなるという悲劇的かつ反逆的な神として、人気があった。老婆の話では、同様の悲劇の皇子として、隼別皇子や大友皇子などについても語られる。

この物語の中では、恋に溺れながら非業の死を遂げる者たちが「死者」の念として象徴されている。無念は継承される。マンガ『NARUTO』におけるナルトとサスケ、アシュラとインドラのように業は巡っていくのが、日本人は好きなのかもしれない。

時空を超えた無念を受け取った郎女は、彼岸中日の秋分の日に、二上山の頂上である雄岳と雌岳の間に仏の姿を見る。その裸形の姿を見て、「はやうあの素肌のお身を、掩うてあげたい」と機を織り始めるのだ。

蓮の糸で幾度も織り上げられ、出来上がったのが「当麻曼荼羅」だった。そうして、姫はさまよう魂を鎮め、自らも浄土へといざなわれたのだった。

大幅に端折ってしまっているのでとてもあらすじとは呼べないが、ともかく最後に織り上がった「当麻曼荼羅」が、なんと現在の当麻寺にある、ということを知った。

ということで、一人旅が嫌いなぼくであっても、それは見るしか無いと思い立ち、奈良へ向かった。言うなればアニメの聖地巡礼のような旅だったのだ。

大津皇子が眠る二上山の麓にある宿をエアビー(Airbnb)で見つけ出し、1週間をそこで過ごした。カフェの一部をベッドルームとして貸し出している場所で、40代くらいの女性が最近オープンしたばかりだった。夜はカフェスペースもリビングルームとして使うことができ、お風呂も併設されていた。

部屋からも二上山を眺めることができ、本当に二又に分かれた山だった。あの間に仏の姿がまみえたのかと感慨に耽りつつ、そこから近鉄奈良線で数駅の当麻寺を訪れた。

当麻寺駅の周辺は中将姫で観光地化されており、中将饅頭も中将餅も売られていた。駅から緩やかな坂を登っていった先に当麻寺があった。真言宗と浄土宗の並立となっており、境内には中将姫の像が立っていた。

この寺の本尊はまさに当麻曼荼羅である。
中将姫の伝説で有名な「観無量寿経浄土変相図」は損傷が激しく公開されておらず、本堂の厨子にかかっていたのは室町時代の写本だった。写本であってもその大きさは4メートル幅で、蝋燭の光でうっすらと浮かび上がってくる。

その大きさに圧倒されながら、曼荼羅そのものよりも、近藤ようこが描いた物語が一気に思い出された。同時に、その曼荼羅から物語を紡いだ折口信夫の視線、郎女が大津皇子を想った視線が幾重にも重なって、去来した。

折口が『死者の書』を書いたのは、古代の人々の観念を伝えたかったからだという。執筆理由をこう書いている。

私は別に、山越しの弥陀の図の成立史を考えようとするつもりでもなければ、また私の書き物に出て来る「死者」のおもかげが、藤原南家郎女の目に、阿弥陀仏とも言うべき端厳微妙な姿と現じたという空想の拠り所を、聖衆来迎図に出たものだ、と言おうとするのでもない。そんなものものしい企ては、最初から、してもいぬ。ただ山越しの弥陀像や、彼岸中日の日想観の風習が、日本固有のものとして、深く仏者の懐に採り入れられてきたことが、ちっとでもわかってもらえれば、と考えていた。

折口信夫「山越しの阿弥陀像の画因」『折口信夫全集 32』より

つまり、この曼荼羅の歴史や中将姫伝説を論じたかったわけではなく、日本の風習や日本固有の考え方を「ちっとでも」わかってほしかったのだ。

折口信夫は日本の古代を探究した人だった。そのときの「古代」とは歴史区分を表すものではない。国文学者の上野誠は折口の「古代」についてこう書いている。

折口にとっての「古代」は、歴史区分ではなく、あるものが生まれてくる「瞬間」を指す言葉だったのです。つまり、「時間」を超えた概念だった。言い換えれば、あらゆるものについての根源、のような捉え方だったといえるでしょう。

上野誠『折口信夫 古代研究』(NHK100分de名著)p.12

言い換えるならば、私たちが神や仏に対してどのように接しているのか、ということを研究した人だった。折口が研究してきたことは広範なものだが、上野はこの9項目にまとめてくれている。

1.独特の発生論から日本の古典を俯瞰する国文学研究
2.神観念や他界観念を通じて日本人の内奥を見通した民俗学研究
3.身体の日本美とその伝承のありようを探る芸能研究
4.日本語の特性について肉薄しようとする国語学研究
5.日本人の倫理や道徳の背後にある宗教的感性を探る宗教研究
6.日本人の、それも庶民の宗教的エネルギーを民俗学の方法で捉えようとした神道研究
7.古典を踏まえつつ歌表現のありようを模索した詩歌の創作
8.自らの学問的実感を物語として表現しようとする小説
9.さりげない行動や言葉の背後にある思惟を捉える珠玉の評論

同上、p13-14

国文学、民俗学、芸能、国語、宗教、神道、詩歌、そして、小説、と日本の古代をめぐる世界観を網羅しているような研究ぶりだ。これらすべてを前提として、『死者の書』という小説に収斂しているため、いくら要約したとしても、したり無いのがなんとも虚しくなる。

このように折口の思想は膨大ではあるものの、ここでは「100分de名著」で上野誠がいう折口学の読み解き方をベースにしたい。それは、折口学を「円環」として捉えるということだった。

その円環とは「1.他界へのあこがれ」から始まり、「2.他界からやって来るまれびと」に至り、「3.まれびとへのもてなし」を経て、「4.もてなしから生まれる文化」へ。そして最初に戻るというものだ。


「1.他界へのあこがれ」は、『死者の書』で言うならば、郎女が二上山の山頂に仏の姿を見たという日想観のことだろう。西方浄土とでも言うもので、太陽が沈む西の果てに浄土があるという思想である。その「彼岸」への憧れが古代の人々の観念のベースにある。

この「彼岸」を折口は「妣(はは)が国」もしくは「常世(とこよ)」と呼んだ。

十年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王が崎の尽崎(さき)に立つた時、遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのある様な気がしてならなかつた。

折口信夫「妣が国へ・常世へ」

この文章はとても有名なもので、折口が海の向こうの西方に「ふるさと」を感じた瞬間だった。折口は自身の直観をこそ重視した人だった。

折口はしばしば民俗学者の柳田国男と比べられるが、柳田が分析的で帰納的な研究を重んじたのに比べると、とても直観的で仮説的だった。柳田はそんな折口に対して「折口君は幸福なくらい直覚のよく当る人」と評しているくらいだったという。

そして、「2.他界からやって来るまれびと」は神様、仏様自身が向こうからやってくるというものだ。「客神(マレビト)」という言葉を生み出したのが折口だった。

唯一神、絶対神は常にそこに「在る」。しかし、日本の神は「やってくる」。いつもそこに居るわけではなく、時おり向こうから訪れる来訪神なのだ。祭りの時に、お盆の時に、神在月に、訪れる。なまはげのごとく、里や家を訪れて、豊穣も厄災ももたらすのが神なのだ。

これは本居宣長(#008)が『古事記』の研究で「成る」にこだわったことにも通じる。「在る」ではなく、「成る」ことが日本の神の特徴なのである。

そうして、「3.まれびとへのもてなし」へ至る。郎女が「はやうあの素肌のお身を、掩うてあげたい」と言って、機を織り始める行為だ。やってくる神に対してもてなしをする。家を掃除したり、料理をつくったり、お酒を用意したり、着物をしつらえたりする。

「おもてなし」をホスピタリティと片付けてはいけない。そこには神がいて、古代が隠れている。異界への郷愁もある。その上で、もてなすのだ。

さらに、もてなすためには「ここ」にいるという目印が必要になる。それが正月の門松であり、神社の依代であり、お盆の提灯なのだ。そこから日本の文様やデザインが始まっている、とも言われているほど、その目印は重要だ。

ということで、「4.もてなしから生まれる文化」である。もてなす行動から茶道が、そのための目印からデザインが、もてなしの言葉から文学が生まれてくる。

目印を立て、お供え物を用意して、祭りをするなどして歓待しました。あるいは、時に歌などを通して、神に自らの想いを伝えようと努力しました。つまり、ここで神と人とが対になる、言葉のやりとりが発生します。

上野誠『折口信夫 古代研究』(NHK100分de名著)、p42

その言葉のやりとりは言霊信仰、もしくは「呪言」と言われている。つまり、『呪術廻戦』の呪言師である狗巻先輩の能力はここから来ていると言えるだろう。

私は、日本文学の発生点を、神授(と信ぜられた)の呪言に据ゑて居る。而も其古い形は、今日溯れる限りでは、かう言つてよい様である。

折口信夫「国文学の発生(第四稿)/唱導的方面を中心として」より

こうして神と言葉を交わすことで、円環はまた1へ戻り、他界へのあこがれが再び醸成される。ここで紹介しただけでも、折口学のほんの一端にすぎないが、妣が国もマレビトも門松も呪言も、日本の文化の根源になっている。それを解き明かしたのが折口信夫だったのだ。

ということは、現代の日本文化であってもその影響下にあるはずだろう。かなり薄まってしまっているかもしれないが、「ウルトラマン」は宇宙の彼方からやってくるし、「すずめの戸締まり」では扉を閉じる際には「祝詞」が唱えられる。クールジャパンであっても、端々に「古代」は隠れている。

折口は古代を研究する目的をこう書いている。

日本文学を何の為に研究するか。それは、詮じつめれば、これだけしかない。即ち日本人の、日本的な生活に対する情熱が、我々の心の底に、どう言ふ状態で、横たはつてゐるか、それを知らうとする動機から、出てゐるのだ、と言ふことに過ぎない。(中略)言語をとほして、我々の欲望が、我々の文学の上に出てゐるに違ひない。これを取り出す為に、日本の祖先から、日本の子孫へ続いてゐる文学を資材として、研究しようとするのである

折口信夫「国文学 序論 国文学研究の意義」より

この折口の想いにならって、「日本の子孫へ続いて」いると信じたいし、継承していかなければならないものなのだろうと思う。

エアビーで訪れたカフェのオーナーの女性は、ぼくに対して「よくこんなところに来ましたね」と言った。「当麻寺に行きたくて」と言うと、「あぁ、そういうのがありますね。わたしは全然詳しくなくて」というのを聞いて絶句してしまった。その地元で生まれた人にもかかわらず、二上山の歴史は現在にほとんど継承されていなかったからだ。

折口が伝えたかった「古代」はすでに多くの人が理解できない、異文化になってしまっている。それがかろうじて、文化や伝統の中に少しずつ埋没している。

郎女が100年前の大津皇子に想いを馳せたように、折口は1300年前の郎女に想いを馳せていた。だからこそ、ぼくらは折口の肩越しに古代を眺めることができるし、近藤ようこの眼差し越しに古代を感じることができる。

福田恆存(#006)からすると、すでに現代日本語と歴史的仮名遣いの断絶がある以上、日本の古代へのアクセスは難しくなっているだろうが、近藤ようこのような媒介者がいることに、大きな希望を持ちたい。

日本文化はどこからやってきたのか?
それは他界からであり、まれびと、もてなしから生まれたものだった。まだぼくたちがギリギリ古代にアクセスできる手段があるうちに、折口の思い描いた古代の姿を継承していかなければと強く思う。


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