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世界はどう成り立っているのか?―ハイゼンベルク【百人百問#015】

父が化学の研究者だったこともあって、家には小難しい理系の本がたくさんあったし、小学生の頃に一緒にお風呂に入るときには浮力について訥々と話されていたような思い出がある。だから、科学はすぐそばにあったし、数字や数式に親しみを感じていた。

そんな父の書斎の壁に1枚の写真が飾られていた。
それ集合写真のようで、アインシュタインやシュレディンガーやボーアやキュリー夫人が並んでいた。もちろん同時は一人ひとりの功績は知らなかったが、名前だけは父に教えられた。その後、大人になってその写真が1927年に開催された「ソルベー会議」で撮影されたものらしいということを知った。

この会議は世界中の物理学者や化学者が集結し、その時代の物理学や化学の難問について議論する国際会議である。そして、その1927年の写真はもっとも有名なもので、超一流の物理学者たちが一同に介していることで、「圧がスゴイ」「歴史上最もIQが高い」写真として、たびたびTwitter上を賑わせるネタになっている。

化学に勤しんでいた父にとって、この写真は憧れでもあり、畏敬の念のこもったものだったのかもしれない。なぜか誇らしげに、その写真について語る姿を覚えている。

この写真に写っていた一人の物理学者がヴェルナー・ハイゼンベルクである。量子力学の基礎を築いた人物で、1932年にノーベル物理学賞を受賞している。今日は彼について深めていきたい。

この1927年というのは、当時まだ新しい理論だった量子力学について議論が交わされ、ハイゼンベルクの有名な「不確定性原理」を導き出した年だった。古典物理学と量子力学の間における議論の真っ只中だったのだ。いわゆるボーアとアインシュタインによる論争である。

ハイゼンベルクは1901年生まれで、当時26歳。ボーアは16歳上の42歳、アインシュタインは22歳上の48歳、湯川秀樹は6歳下の20歳。そんな時代である。

彼が導き出した「不確定性原理」は量子力学の基本となる性質の発見だった。詳しくはぼくも理解できていないが、すごく簡単に言うと、量子の位置と運動量は同時には測れない、というものである。

野球のボールをたたくとボールは飛んでいく。ボールは飛行中つねに確定した位置と確定した速さ、あるいは速度を有しており、正しく測定することができる。しかしながら、超微細な量子の世界になると、それが実現しない、という発見だった。それが「不確定」という意味である。

ちなみに量子の世界は、私たちが目の前にしている世界とは違う法則で成り立っている。ボールや机はニュートン物理学で計算できるが、量子のミクロの世界はそれでは説明できない。そこに挑んだのがボーアやハイゼンベルクやアインシュタインだったのだ。ニュートン物理学によって説明しようとしたのがアインシュタインで、新しい世界観を持ち出したのがボーアとハイゼンベルクだった。

量子にはいくつか不思議な性質があるが、一番有名なのはその姿である。量子というくらいなので「粒」のようなものだと思うが、時として波動という「波」のような性質を持つようにもなる。ときに粒であり、ときに波でもある。それが量子という不思議なものの正体だった。

その不可思議な正体を見抜いたのがボーアやハイゼンベルクだった。その量子の性質が議論されていたのが、この1920年前後のことだったのだ。

アインシュタインとボーアの論争において、ボーアの研究所にいたのが、若き物理学者であるハイゼンベルクだった。現在の歴史が示すところによると、アインシュタインが敗北し、ボーアおよびハイゼンベルクの量子論が勝利している。「神はサイコロをふらない」と言ってアインシュタインは批判していたが、そうではなかった。

そんなハイゼンベルクが晩年に書いたのが『部分と全体』という本である。みすず書房の重厚な本の表紙から、中にはぎっしりと数式が並んでいると勝手に思い込み、ずっと手に取れずにいた。しかしながら、中身は数式などではなかった。

この本は「対話篇」になっている。
各章がハイゼンベルクの青年時代から順を追って、当時議論した相手との対話が記録されている。相手は高校時代の仲間から、師であるボーア、論敵であるアインシュタイン、ともに量子論を前に進めたシュレディンガーやパウリなど、多岐に渡っている。

この対話はあくまでハイゼンベルクの記憶によって書かれている。実際に対談をしたわけではなく、ハイキング中の会話や研究所での話し合い、講演会後の雑談など、ハイゼンベルクが経験したことが著されているのだ。なぜこの対話篇を出版することにしたのか、ハイゼンベルクは「序」でこのように書いている。

この書物は、著者がまさに体験してきた原子物理学の最近の五十年間の発展にかかわるものです。自然科学は実験に基づくもので、それにたずさわってきた人々は、実験の意味することについて熟慮を重ね、お互いに討論しあうことによって成果に到達していくのです。この本を通じて、科学は討論の中から生まれるものであるということを、はっきりさせたいと望んでいます。

ハイゼンベルク『部分と全体』「序」Ⅷ

この思いから、対話篇という形をとった本書が生まれている。
対話のひとつ目は「原子学説との最初の出会い(1919-1920)」というものだ。高校時代の友人との対話が描かれており、とても高校生とは思えない思慮の深さを感じていただきたい。会話の一部を書き方を改変して紹介する。

相手は友人のクルトとロバートである。内容は教科書のさし絵についてである。分子構造を表す絵が「ホックと留金」だったことに、ハイゼンベルク青年は納得できなかったそうだ。

ハイゼンベルク:一つの炭素原子と二つの酸素原子とで炭酸ガスの一つの分子がつくられる、ということを説明するためのさし絵では、分子の中での原子の結びつき方を「ホックと留金」とで表していた。このことが私には全く腑に落ちなかった。なぜならば、私にはホックと留金などというものは、技術上の目的に応じていろいろ好きな形に変えうる全く勝手なもののように思えたからである。

クルト:僕も君と同じように、それはかなりおかしいとは思うが、もしも君がホックと留金を認めたくなければ、どんな経験事実が図を描く人にそのようなさし絵を描かせたか、ということを君はまず第一に知らなくてはいけない。(中略)できるだけ思いきって説明するためにホックと留金を描いたのだと思う。

ハイゼンベルク:よし、わかった。つまりホックと留金というのは現実的な意味を持たないということだね。

ここで哲学や詩が好きなロバートが会話に入ってくる。

ロバート:君たち自然科学の信奉者どもはいつでもすぐに経験事実ということをひっぱり出して、それで真理を確実に手に入れたと信じてしまう。しかし経験するというときに、実際に何が起こるのかをふり返ってよく考えてみると、君たちのやり方には非常に議論の余地があると僕には思われる。

ハイゼンベルク:それでも、君が非常にきびしく知覚の客体から分離しようとする表象というものは、結局のところ、やっぱり経験からくるのではないのか?

ロバート:それは僕には全然真実とは思えないし、とうてい納得できない。

クルトもロバートの発言に納得できない。

クルト:君たち哲学者はいつでもすぐに神学と手を取りたがる。そしてむずかしくなってくると、すべての困難を労せずして解決してしまうような偉大な未知のものをひっぱり出してくる。しかし、僕はそれに妥協することはできない。

こんな問答をお互いに積み重ねていく。
まるで空海(#001)の『三教指帰』のように、哲学者と物理学者が議論し、思考を深めていっているのだ。そうして、ハイゼンベルクは最近読んだプラトンの『ティマイオス』の一節を思い出しながら、当時は量子とも呼べないような「最小の部分」について考えるようになったという。だからこそ、この章のタイトルが「原子学説との最初の出会い」なのである。

しかもこんな会話が、野外活動や長距離ハイキングを指す「ヴァンダールング(Wanderung)」の中で行われていたという。お互いに丘陵地帯を歩きながら、上のような対話をしているとしたら、末恐ろしい高校生たちだ。

物理学の内容はわからなくとも、刺激的な対話であることは感じ取れる。ここに本書のスリリングな面白さがある。また他の対話も見てみたい。

第4章である「政治と歴史についての教訓(1922-1924)」では、師でもあるニールス・ボーアとの対話が描かれている。これもまた、ヴァンダールング中の会話である。4、5日間のあいだジーラン島横断のヴァンダールングにボーアがハイゼンベルクを誘ったときのことだという。

その対話は物理学についてではなく、先の戦争である第一次大戦についての問答から始まる。

ボーア:私はいくどか戦争勃発当時のことを聞かされました。戦争が双方にどれだけの恐るべき犠牲を要求し、その際にどれだけの多くの不正が起こるかということを、人々は当然知っているにちがいないのに、一つの民族が、パッと燃えあがり真の熱狂に酔いしれて戦争に入って行くということは奇妙なことではないでしょうか?

ボーアはデンマーク出身であり、ハイゼンベルクはドイツ出身。ドイツがデンマークを含めた他国に行った悲劇について詰問しているのだ。ハイゼンベルクはこう答えた。

ハイゼンベルク:私は当時十二歳の生徒でしたが、もちろん、両親や祖父母たちの対話から私の理解し得た範囲内で私なりの意見を持っていました。私は”熱狂”という言葉が、当時のわれわれ皆の状態を正しく表しているとは思いません。私が知っていた人たちは誰も目の前に起こったことを喜んではいませんでしたし、それに誰一人としていま、戦争が行われることがよいことだと思った人はありませんでした。

もちろんハイゼンベルク個人がこの戦争に加担したわけではないが、しっかりと自国について自分がどういう考えを持っているのかを毅然と返答する。この姿には背筋が伸びる。ボーアは続ける。

ボーア:われわれのこの小さな国では、このむずかしい問題についてもちろん非常に違った考え方をすることを、あなたは理解してくれねばなりません。

そこから両国の歴史について、戦争認識について、歩きながら語らい合う。決して口論しているわけではなく、丁寧に事実と認識を重ね合い、そうこうしているうちに午後になる。海辺に出て、小さな漁村を通り抜け、はるかにスウェーデンの浜辺を望めるところまで歩いたという。

ボーアとの対話は政治と歴史についてで終始した。実際にはその後に物理学について語り合ったそうだが、本書では描かれていない。ハイゼンベルクが序で「近代原子物理学は、哲学的、道徳的かつ政治的な根本問題にあたらしい議論を提供しました」と書いているように、本書もまた物理学のみならず、政治についても、道徳についても書かれている。そこが本書の対話の奥行きを深めてくれている。

本書には多様な対話がハイゼンベルクの手によって、蘇っている。しかも時系列に書かれているために、ハイゼンベルクの青年期、壮年期、老年期へと進んでいく思考のプロセスも興味深い。すべてを紹介できないが、最後にアインシュタインとの対話を掲載したい。第5章の「量子力学およびアインシュタインとの対話 (1925-1926年)」である。ソルベー会議の前年のことだった。

それはハイゼンベルクがアインシュタインの談話会に参加した後でのことだった。アインシュタインは私邸で新しい考えについてもっと詳細に討論しようとハイゼンベルクを誘ったという。

アインシュタイン:あなたが談話会で話したことは、全く尋常ではないもののように聞こえました。原子の中に電子があるということを、あなたは仮定しましたね。(中略)この奇妙な仮定に対する理由を、もう少し正確に私に説明してくれませんか?

アインシュタインがハイゼンベルクの哲学について聞きたがっていることが伺い知れる。このあとハイゼンベルクが丁寧に説明するもアインシュタインは納得しない。ハイゼンベルクは自身の考えがアインシュタインの相対性理論の考えと同じであることを伝える。

ハイゼンベルク:まさにあなたこそ、この考えをあなたの相対性理論の基礎にされたのではなかったのでしょうか?この絶対時間というものは観測されないのですから、絶対時間について人は議論をしてはならないのだということをあなたはたしかに強調されました。

いま流行りの論破のように、ハイゼンベルクはアインシュタインが相対性理論で掲げた手法を逆手に取り議論を進める。アインシュタインの分が悪そうだ。

アインシュタイン:おそらく私はその種の哲学を使ったでしょう。しかし、それでも、やはりそれは無意味です。あるいは、もう少し控え目な意味で、われわれが実際に観測するものを思い出すことは発見の手順としては価値のあることと言えるかもしれません。しかし原理的な観点からは、観測可能な量だけをもとにしてある理論を作ろうというのは、完全に間違っています。

ここにアインシュタインとハイゼンベルク(ないしはボーア)の相容れない分岐点がありそうだ。古典物理学の延長線上で量子の世界を捉えたかったアインシュタインと、新しい世界観を見出していたボーアとハイゼンベルク。両者の対話から物理学の歴史的な分岐点が垣間見えることに、興奮すら覚えてしまう。

ハイゼンベルク:おそらく、原子が上か、それとも下のいずれの状態にあるのか、人にはわからないような中間状態が存在するのでしょう。

アインシュタイン:しかし今やあなたの考えは非常に危険な方向に向かっています

ハイゼンベルクは量子が粒子でもあり波でもあることや、位置と運動量が同時測定できないような「曖昧性」に気づいている。しかし、アインシュタインはその曖昧さを許せない。それを許してしまえば、これまでの古典物理学を否定することになってしまうからだ。神がサイコロをふることを認めてしまうことになる。

アインシュタイン:よろしい、それはそれでよいとしましょう。われわれは2、3年のうちにもう一度そのことについて話すことになるでしょう。

相容れない両者は論点を変えながら、物理学における真実性や哲学について議論を続けたという。アインシュタインがハイゼンベルクにその確信がどこからくるのかを問う。

アインシュタイン:こんなに多くの、そして重要な疑問がまだたくさん残されているのに、どうしてあなたはそれほどあなたの理論に確信を持てるのでしょうか?

ハイゼンベルクは答えに窮しながら、こう言ったという。

ハイゼンベルク:私は、ここで自然によってわれわれに示唆された数学的体系の簡明さと美しさが、私にとってはたいへん説得力をもっているということを、みとめなければなりません。自然が、突然ある一人の人の前にくり拡げる全然予想だにしない現象間の関連の簡明さと纏まりに対して、人はほとんど恐怖に近い感じを味わうことを、あなたもおそらく体験されたことがあるに違いありません。

ハイゼンベルクはとても感覚的で直観的な返答をした。それは「簡明さと美しさ」だと。これは、とても物理学者とは思えないような曖昧な回答だった。アインシュタインはこの回答に「興味は持つ」と言いつつも「本当には理解していない」と告げる。

これが25歳そこそこのハイゼンベルクと40代半ばのアインシュタインの会話であることに戦慄する。そうして、いよいよこの対話の翌年、1927年にソルベー会議で二人は再会し、あの集合写真が撮影されるのだ。

この第5回ソルベー会議にて、アインシュタインとボーアが論争する。会場の内外でアインシュタインは次々と巧妙な思考実験を示し、ボーアの解釈の内部矛盾をあばくような鋭い批判を浴びせる。しかしながら、ボーアはそのつど答え、反論していった。

その後もアインシュタインの猛攻は続いたが、ボーアの反論は完璧なものだった。アインシュタインはボーアの理論が論理的に可能であることを認めつつも、「私の科学的直観にあまりにも反するがゆえに、私はさらに完全な概念を探し求めることをやめるわけにはいかない」と語っていたという。ここにあるのも、お互いの直観のぶつかり合いだった。

『部分と全体』には他にも、シュレディンガーとの対話やヴァイツゼッカーとの対話、マックス・プランクとの対話などが繰り広げられる。内容はもちろん量子、素粒子についてから、プラトン哲学や宗教、神についてまで、広大だ。1章だけでも1冊の本になるような濃さの対話を眺めながら、ハイゼンベルクがプラトンのごとき対話篇を編んでいく様子に興奮する。

世界はどう成り立っているのか?
量子論の礎を築いたハイゼンベルクの発想力と柔軟性、そして対話力によって現在の科学は支えられている。父が書斎の壁に貼っていた1枚の写真のように、ぼくもこの知的な対話篇をいつでも眺められるようにしておきたいと、強く思った。


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