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孤独と恐怖の先にあったのは、私は「私」であり、私の感受性であること

※ 水たまりに映る世界の方がきれいに見えます。なぜでしょうか。

※ このノートで私が伝えたい一番大事なことは、「私は私であり、私の感受性である」セクションに書かれています。

※ 哲学初学者ながらこれは言わせていただきたい。
このニーチェおよび広く哲学に興味のある方には、『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』(漫画版)を全力お勧めしたい。

いんとろ:

どんな人がこのノートを書いているのか


簡単に自己紹介します。日本の大学で小学校の先生になるべく教育を専攻し、また、人の心に寄り添える人間になりたいと思い、児童心理ゼミに所属していました。
ですが、色々あり、「ホーム」とは何か?追及すべく、今はイギリスの大学院で文化地理学を専攻しています。

イギリスに来て二か月半です。今は冬休み中です。コロナ禍でイギリスの状況は日々最悪を記録しています。なのでどこか出かけるとかそういうことはしていません。基本キャンパス内で暮らしています。そんな生活の中で強烈な孤独と誰かをどうしようもなく愛したい、愛されたいという感情に出逢いました。彼氏とかそういう親密な関係な人はいません。家族との関係も正直私は悲観的に見ています。家の人が私を愛してくれたこと、愛してくれていることはものすごく強く感じています。でも、家族だから分かり合えるとかそういうのは無いと思ってます。血は繋がっていますが。彼らは私とは完全に違う人間です。私は彼らのことを分かりませんし、彼らに私のことを分かってもらいたいとか分かるだろうとかいう期待もありません。

孤独にどう向きあったのか:

とりま、エリクソンの発達段階説をみてみる


教育学科で児童心理学を専攻していたので、今の私がいる人生のステージはエリクソンの発達段階説で言う、成人前期の親密性VS孤独の段階の葛藤であることは理解していました。さらに、私は母娘関係の葛藤も同時に抱えていたので、もう自分のもやもやが再骨頂に達し、どうしようもない状態で冬休みを過ごしていました。こういう時の私なりの対処法は、発達心理学の論文を読み自分の状況を客観視することです。読みました。結構、事例検討とかが載っているので「母娘関係×学術論文×発達心理学」の画像欄とかから何か情報が得られます。私は視覚からの情報をキャッチするのが得意な人間なのでそうしてます(視覚優位)。

死への恐怖をどう捉えたのか:

ニーチェの楽観的ニヒリズムに賛同できたのが大きかった


孤独に加えて、誰かを愛したい、でもどうせ死んでしまうのになぜ愛すのだろう、これまでの人生の諸々のトラウマから、愛すのが怖いという境地にいました。問題は死んでしまうのになぜ生きているんだろうとか、そういう人生って何?っていう境地に来てしまったことです。

そんなところで、先日、ニーチェの楽観的ニヒリズムという概念に出逢いました。やっと出逢えたという感じかな。もっと知りたい人のために、説明動画を以下に掲載します。

日本から唯一持参した和書の『ツァラトゥストラはかく語りき』を読了したことで、この恐怖はニーチェのニヒリズムが説明していることに、やっと気づきました(人生の先輩方から見れば、今更という感じで恥ずかしいです)。同時に、底に沈んでいる時にamazarashiばっかり聴く訳も説明されました。

具体的にそのなかみですが:

やりたいことをできる有難さを日々感じると同時に、確実に人生ゲームの駒が進んでいって、終わりに近づいてる。それを考える時の私の時間軸は直線で、先ほどもお話したように、死ぬのが凄く怖いと思っていました。今でも怖いですけども。でも、今生きている人より死者の総数のが多いと考えると私は単なる未来の死者なんですね、言い方を変えれば未来の死刑囚で最期の死によって現世の罪を償うという感じでしょうか。

人生苦しいこと辛いことがあるのは当たり前で。それを誰かに分かってもらおうとするのはエゴで傲慢。だからといって苦悩を突き放すのでは全くなくて。

苦しいことを笑いや芸術などの活動に昇華して今をいかに楽しむかだと。友人が言うには、これは楽観的ニヒリズム、苦しみの潮の深みに価値を見出すことだと。深く腹に落ちました。

永劫回帰感とはなんぞや:

さらにニーチェの思想に関して言えば、私が日常に対して永劫回帰感を見出してきたらしいことにも気づきました。思えば、発表とかの人前で緊張した時もそんな感覚が生まれてきて、その瞬間にすごく自身の緊張の感情や行動ってどうでもよくなってしまう時があったり。それも彼の思想でなんとなく説明されるのかもと察しました。

それを踏まえて:

これまでダークユーモアを言う人に対して本気で不快な気持ちになるタイプだったんだけど、もはやそれこそ楽しめるような人間になりたいと思いました。個人的に大きな変化かと思います。

特定の人物に心服するのでなく、私は、直線と円環の時間軸を行ったり来たりしています。

私は何なのか、なぜ生きているのか:

それを真剣に考え始めた

ニーチェの楽観的ニヒリズムに出逢い、上記の所感を個人的なフェイスブックに投稿しました。あとから自分で読み返すと、なんか病んでる人…みらいなやばい感じがありました。今の私の心境としては、結論から言うと、「大丈夫です」と思います。

絶賛自我同一性拡散なうながらも、やっと辿り着いた!と思った先にあったのは無と絶望と熱っぽい身体だけで、こんなもんかとあっさり感にまるまる1日脱力してました。

辿り着いたのは、私は「私」であり、私の感受性であること

そっから見つけたのは、私は私であり私の感受性であること、で。感じるものが「私」であること。当たり前かもしれませんがここまで来ました。カテゴライズ、つまり所属が自分をつくっていることを受け容れられずコミュニティに入っては出て壊しを繰り返し社会的アイデンティティが自分を形造ることにささやかに抵抗してきました。ですが、いまは自分が美しいと思うもの、愛しいと思うもの、恍惚感を覚えるものetc. それらが私だというところにきました。つまり、コミュニティに何かしら惹かれるものを見出す心そのものが私をつくっていて私を説明し私を定義するんだと。分かっていたのかもしれないし99%の無意識によって感受性が私の行動を決定し私たらしめていたのかもしれませんが、文字にできるというのはなんだか一味違った感覚を与えますね。

※ 以下に、荒いですが感受性の中身を書きなぐった画像です。参考までに添付しておきます。社会的アイデンティティのカテゴライズと自分との関係性に関しては未だよくわかりませn。

大事なのは右頁だと思います。左頁に関しては確信を持っていないです。※なら載せるな

やっとそこかよ、自分語りする人嫌いなくせに結局自分も語らずにはいられないのかよ、と思われる方もいるかと思いますが、私は私であり私の感受性であると同時に思考なんです。考えることをやめられません。正直、想いと言葉を心の内に抱え続けれない自分は弱いように見えて嫌です。

まだまだ社会的文脈と自分との関係への折り合いがつけられない未熟者ですがそういう感じです。

アウトロへのつなぎ:

として、最後に留学の意義を正当化してみる


自分を愛したい、まるごと愛せるようになりたい。私の活動の原動力は自分嫌い、強烈な劣等感です。学問と孤独とのはざまで自分を見つける時間をもてるのも、若者が留学をする一つの醍醐味ではないでしょうか。

あうとろ:

この投稿を年越しと年明けのはざまに書いていました。派手すぎる花火の音にすぐそばの木にとまっていた鳥が驚いて鳴きながら飛んでいきました。動物への配慮はどうなっているんでしょう。人間ってわがままですね。正直、年越しってそんなに重要なんでしょうか。そういうひねくれた人間がこのNoteを書いてます。

フラットメートのお姉さんに年越しそばを拵えてもらいました。出汁はやっぱり最高ですね。材料や食事を準備する手間と時間を考えると罪悪感に苛まれ、若干ひもの気分ですが、明日もおせちをありがたくいただく予定です。美味しいものは世界を救います。悩んだときは、美味しいものを食べて寝ること、だそうです。友人曰く。とりま、悩んでる人は嫌でも美味しいものを食べてください。

白だしベースです。まじ沁みました。

(ひとまず、完)

追記(2022/01/07)


 上記の思考にたどり着いてからおよそ一週間が経ちました。この一週間、正直言って病んでましたw ただ人生は螺旋状ですのでおなじところのようで少しずつ上がっていっているのです。(※ 同じ自分は一瞬たりともいません。この文章を読む前と後では、その途中でさえも日々人は変わっていっています)
 さて、問題の核心ですが、病んでいた内容は他者を受け止めることへのためらいです。この状態を心理学的には説明できません(※ 教えて)。でも、感じたことを書いてみます。私は私の感性なのですが、私の感性に従って何かを創作する、表現する。そのとき、他者、つまり外界と接することになる(※ そんな当たり前だよと思った方、私はまだそこなのです、生暖かい目で見守ってください)。
 つまり、私は私自身によって私を定義できるように見えて、同時に、私は他者の眼差しによってしか説明され得ない。なんとも、、、な感じです。私は私自身のオリジナリティを求めすぎて、他者を引き受けることへの拒絶感さえ感じていました。ですが、ぼちぼち、ちょっとずつですね。
 この一週間のうち、他者への拒否反応のために、他者に対してすごい威圧的な態度で一日を過ごしたこともありました(※ 目線めっちゃ怖かったと思うw)。そういう状況の時は友人に相談しまくるのですが、まあ思考がひたすらにネガティブなので対処法も浮かばす。友達に教えてもらった彼女の気分転換リストを参考に、考えずとも自動的に対処法にたどり着けるように、事前にメモを作成しておこうと思いました(※ ストレスへの対処法は千差万別、自分で見つける)。まあ、病んでいる時に周囲に相談しまくる、そんな自分の反応も、もうよしよしという感じで少しずつ、まったりすすんでいきたいものです。そういうときに反応してくれる友人たちよ、ほんとうにかたじけないぞ・・・(了)

参考(読書案内的なのです):


『ツァラトゥストラはこう言った』上  ニーチェ著 ; 氷上英廣訳 岩波書店 1967.4 (岩波文庫 ; 青-639-2)
『ツァラトゥストラはこう言った』下  ニーチェ著 ; 氷上英廣訳 岩波書店 1970.5 (岩波文庫 ; 青-639-2)

※ 以下は漫画版ですが、読んでみてめちゃくちゃ面白かったです。
『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』 上 原田 まりる, 荒木 宰 著 小学館 2018.11
『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』 中 原田 まりる, 荒木 宰 著 小学館 2019.1
『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』 下 原田 まりる, 荒木 宰 著 小学館 2019.3

***

Optimistic Nihilism:

This loneliness is described by Erikson's developmental stages of adolescence or early adulthood. I knew in my head that I had to achieve identity, intimacy and other difficulties that would come up many times in the future and that I would have to overcome them each time. But in the last few days, having read the only Japanese book I brought with me, "Thus Spake Zarathustra (JP: Zarathustra ha kakukatariki)", I've finally realised that Nietzsche's nihilism explains my fear (ashamed of me). At the same time, it explained why I only listen to J-pop, 'amazarashi' when I'm in the depths of despair.

Specifically:

I feel grateful to be able to do what I want to do like in Japan, the US and the UK, but at the same time, I'm sure that the game of life is getting closer and closer to its end. When I think about it, my timeline towards view of life is a straight line and I was very scared of dying. Maybe I still am. However, when I think that the total number of dead people is greater than the number of people living now, I am just a dead person in the future.

It is natural to have painful and difficult times in life. It's ego and arrogance to try to make someone understand that. But that doesn't mean that I ignore the pain at all.

It's about sublimating the pain into laughter, art and other activities, and how to enjoy the moment. My friend says that this is optimistic nihilism, finding value in the depths of the tide of suffering. I thought oh, that is what I have sought for a long time, and his advice became clear to me.

A sense of eternal return:

I've also noticed that when it comes to Nietzsche's ideas, I seem to have found a sense of eternal return in the everyday. For instance, when I get nervous in front of people at a presentation or something like that, I get this feeling, and at that moment I don't really care about my own nervous feelings or actions. I think that probably could be explained somehow by his philosophy.

Based on that:.

I've always been the kind of person who gets really uncomfortable when people talk about dark humour, but now I want to be the kind of person who can enjoy it. I think that's a big change for me personally.

Having said that, I don't have a particular existence in mind, I mean in terms of religion-ish, I still go back and forth between linear and circular timelines in my life.

Who I am

So, although I was in a state of ego-identity diffusion (this is a psychological term, sorry), I finally realized that all I found there was nothingness, despair, and a feverish body. I was disappointed that I had not gained anything significant thing there.

What I found was that I am me and my sensitivity. What I feel is "me". It may seem obvious, but FINALLY, I can think like this way.

I think I have resisted in a small way the idea that social identity shapes who I am, going in and out of communities and breaking them down. I could not accept that categorisation, or belonging made me who I am. I was young, maybe still am young?

But now I've come to a place where what I find beautiful, what I find lovely, what I find ecstatic, etc., my sensitivity mean truly myself.

In other words, the very mind that finds something to be attracted to in a community is, what makes me, explains me, and defines me.

Maybe I have already known this since I was a child, maybe my 99% unconscious sensitivity has determined my behaviour and made me who I am. But, I feel like that being able to put something explaining myself into words give me different feelings.

I know that some of you may wonder why Mako expresses herself too much here. It is just because I can't help talking about myself. (you know, in the community I belonged to in Japan, there are not many opportunities to share feelings, there are few outspoken people, and my thoughts are suppressed by the cultural and social context, I guess)

Besides, it is also just because I am me, I am defined by my sensibility and I am explained by my thoughts. I can't stop thinking. To be honest, I don't like myself who can't keep my thoughts and words inside my heart, as you know it looks weak person for me. I mean for me, a person who has strongness does not show his/her weakness in public.

I'm still not ready to come to terms with the social context and my relationship with it, but that's how I feel so far.

Anyway, my flatmate cooked New Year's Eve soba (JP: Toshikoshi-soba: kind of noodle for 31st Dec. midnight). The Japanese dashi (soup stock) is the best, isn't it? That reminds me of Japanese taste... But, also, I feel guilty when I think about the time and effort it takes to prepare the ingredients and the meal, and I feel a bit like a boyfriend who is being fed by his girlfriend, but I am going to enjoy the Osechi (traditional Japanese food for the New Year, it is kind of special bento) again tomorrow. Delicious food can save the world, literally.

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