蟄虫啓戸
シャッ―――
という細く鋭い音が耳に届くと同時に瞼に感じた光が、微睡みの中にいた意識を強制的に引き上げた。
抗うように胸のあたりまで下がっていた掛布団をぐいっと頭の上まで引っ張り上げるが、開け放たれた窓から入り込む冷気の方が一足早かった。
「…さむっ…」
一晩かけて温もった体を縮こませて何とかもう一度惰眠をむさぼろうとしたのだが、今度は強制的に布団を引きはがされた。
「いつまで寝とっとけ、こん子は。」
「んー…」
「ほら、布団あげんね。掃除もしがならんが。」
「今何時?」
「もう8時。」
「まだ8時やろ?」
こちらの反論が終わらないうちに、シャッシャッ、と畳を箒で掃く音が聞こえる。こうなってはそのうち私まで掃かれかねない。
布団の中でめいっぱい伸びをしてから観念して跳ねのけると、隣に敷いてあったはずの布団は綺麗に畳まれて押入れになおされていた。
寝巻を脱ぎ、普段着に着古したエプロンをつけた祖母の背中が部屋の隅にある。手際よく縁側に向かって掃き続ける姿はもうすぐ80歳を超えるとは思えないほど機敏だ。
布団を縁側までもっていき何度かパタパタしてから端と端を合わせて折りたたみ、押入れのそれに重ねる。
パジャマのまま玄関へ行き、靴箱から適当にサンダルを引っ張り出して外に出る。朝はまだまだ肌寒さを感じるが、上着を取りに戻るのも面倒でそのまま縁側の方へと回る。
「んにゃんにゃ、寝巻んままで…」
「誰もみらんし。」
「まこて…」
苦笑しながらも手は止めない祖母と会話をしつつ、縁側の下から塵取りを取り出そうと伸ばしかけた手を引っ込めた。
「ばぁちゃん!」
「なんね?」
「虫!虫がおる!」
「外にはおっとよ。もう春やがね。」
そこそこの大きさの虫も手づかみでぽいっと放り投げられるような祖母にとっては大した問題ではないらしい。
私はその些細な存在で安堵の冬がとうとう終わってしまったのだと悟った。
ほら、と祖母に促され、傍らにいるそれに十分注意しながら塵取りを手にし縁側から吐き出される埃を受け止めゴミ箱に捨てる。
再度足元に視線をやると、縁側の下から這い出てきたそれが庭に生えている雑草の隙間に消えていくところだった。
「暖かくなってきたら、みーんな出たくなるんやが。」
縁側に立つ祖母の手が頭に添えられ、小さくぽんぽん、と叩かれる。
自分より小さいその掌は、何故だかとても温かい。
その温かさを煩わしいと思ったこともあった,
それなのにこうして都合のいいときだけ、その温もりを頼ってしまう。
なんて自分勝手。
ちっとも成長していない。
大人になった今でも、私は何にも代えがたく、有難いその温かさに守られている。
「啓ちゃん、ごはんにしよか。」
「…うん。…ばぁちゃん?」
「ん?」
「私、明日帰るね。」
「…そうね。」
「うん。」
「ばあちゃんな、いつでんここにおっから。」
「…ありがとう。」
いつか私もこんな風になれるだろうか。
自分の掌を一瞥し、台所へと小走りしていった祖母を追いかけた。
啓蟄
蟄虫啓戸(すごもりのむしとをひらく)
地中で冬ごもりをしていた虫達が温かい春の気配を感じて、戸を啓いて顔を出すかのようにその姿を表す頃。