「蠢く」という字は虫たちに急かされてできた字に違いない
「春」の下に「虫」を二つ書くと、蠢(うごめ)くという字になる。
この字を作った人って、きっと直球すぎるほどストレートだ。わかりやすいけれど、残念ながら、創造力とかアートのセンスはあまり感じられない。お気に入りの漢字ではないが、この「蠢く」という字を見ると思い出すお気に入りの光景がある。
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末っ子が生まれてすぐ、雪が溶け始めた町へ引っ越したばかりのある春の日のこと。
北国の春の到来は遅く、まだストーブを消すことができない日が続いていたが、その日はやわらかい日差しがリビングに差し込んでいた。そこは古くて狭い社宅だったが、広い中庭があった。庭といっても手を加えられていないただの荒れ地だったが、小さな子どものいる家庭にとって、中庭のある暮らしはありがたかった。暖かくなったらお花を植えよう。テーブルを置こう。BBQもしたいな。春を待ちわびながら夢を膨らませていた。
そんな春めいた陽気に誘われ中庭に出た。
厳しい冬を乗り越えた北国の春の空気は、私が育った瀬戸内のそれとは鮮度が違った。私が連想する春のふわふわとした空気とは違い、どこかシャープで、それでいて温かさがじわじわと身に染み込んでくる。
ふと、足元のひび割れた土が目に留まった。
ーあれっ、これって啓蟄だ
重い雪がようやく溶けたものの、まだほぐれていない硬い土がこんもりと盛り上がり1本の短い線を描いている。一つだけではない。よく見ると、ここにも、そこにも、あそこにも。小さな虫たちが春を感じて、土の中で蠢いたのだろう。虫の苦手な私でさえ、春に踊る生き物たちが愛おしく感じられた。
確か、中学の国語の教科書で習った言葉「啓蟄」。当時はとても知的な響きに聞こえた。先生がいつもに増して熱心にその言葉の意味を教えてくれたことを覚えている。だが、日常生活で身近に感じることはなかった。
あれから20年ほど経って、まさかあの授業を思い出すとは。しかも、言葉の意味が、春の優しい日差しと一緒に熱を伴って体中に浸透したように感じられた。
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今日はその啓蟄。
久しぶりにこの言葉と、あの時体中に染み込んだ春の空気を思い出した。あの体験からさらに10数年が経っている。なぜ今日、ふいに啓蟄を思い出しただろう? なんとなく追求してみるのもおもしろいかも、と窓の外を眺めながら、ぼうっと考えてみた。
ーこれは愛犬のおかげだな。
これが私の答え。
「啓蟄を思い出した=愛犬のおかげ」という等式になるまでの裏付けは、一言でいうと、赤ちゃんや動物など小さな命のそばでは、人間のもつ動物的な感覚がより研ぎ澄まされるのではないか、と考えたこと。
我が家の愛犬は、昨年の啓蟄後にやってきた。今年、初めて一緒に啓蟄を迎える。今年は啓蟄を思い出したが、去年も一昨年も思い出すことはなかった。そして、あの啓蟄を体感した雪国での体験は、末っ子を出産したばかりの時だ。
これだけではない。十分な裏付けとなる出来事がもう一つある。
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あれは、長男を出産したばかりの夏。新幹線を予約し、息子を連れて夫の実家に行った時のことだ(夫は海外赴任中だった)。
1階の部屋で息子に授乳していると、外からか細い猫のような鳴き声が聞こえてきた。その鳴き方がどこか尋常でなく何か非常事態に思え、口をもぐもぐしながらウトウトしている息子を抱え、慌てて玄関を飛び出した。すると、駐車場の隅で懸命に声を張り上げている生まれたばかりの小さな小さな仔猫を見つけた。
私は慌てて母猫を探した。こんなかわいい赤ちゃんを置いていなくなるわけがない。我が子と離ればなれになると想像するだけで、胸がキリキリと痛んだ私は、その周辺を何度も見まわした。母猫の姿はどこにも見当たらない。
そこへ、お向かいさんがやってきた。あいにく、義母は出掛けていて、家には私と息子しかいなかった。お向かいさんが何の用だったかは覚えていない。もしかしたら聞いてもいなかったかもしれない。私はお向かいさんに仔猫を助けてほしいとお願いした。面識はなかったが、義母の知り合いだ。義母の帰りを待っていたら仔猫が弱ってしまうかもしれない。この人に言えば、何か知恵を出してくれるだろう。そう思い、必死になって状況を説明していると、私の目から大粒の涙がとめどめなく溢れ出ていた。
その夜、息子に授乳している背中で、義母が電話でお向かいさんに話しているのを聞いた。
「ごめんなさいね、そう、そうなの。まだ産後あけだからちょっと気が高ぶ ってて、普通じゃないのよ」
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確かにあの時の私は普通じゃなかった。お向かいさんだって、お初におめにかかった向かいのお嫁さんが、髪を振り乱し、赤子を抱えて泣きながら「仔猫を助けて」とわめけば、仔猫よりも私を心配するだろう。義母との電話はそういう話だったに違いない。
あの時の私は、まるで何かにとりつかれたようになっていた。仔猫の鳴き声が胸を強烈に揺さぶって、いても立ってもいられなかった。仔猫の悲しい声に私の心が音叉の如く共鳴したのだ。
これらの出来事から、私は赤ちゃんや動物などの小さな命がそばにある時は、私の中の動物的感覚が研ぎ澄まされるのではないか、と考えた。
愛犬を迎えてもうじき1年。
この1年で、私は今まで以上に動物たちが愛おしく思えるようになった。散歩中に挨拶を交わすわんこたち。インスタでフォローしているわんこたち。愛犬が夢中になっている近所の黒猫。朝に楽しい歌を聞かせてくれる小鳥たち。すべての命を感じる。今まで聞こえてこなかった彼らの声が聞こえる。
太古の昔、動物たちと共存していた人間たちは、動物たちの声を聞いていたのだろう。虫や自然とも会話していたかもしれない。互いに敬い労わりながら暮らし、彼らの大切な命に感謝しながらいただいていたに違いない。
自然界との共生から多くのことを学び進化してきた人間は、便利な道具や機械を開発し、新しい生活様式を築いた。そしていつの間にか、人間は動物の上に立ってしまった。動物の命の売買をする。動物の命を粗末にする。
自然や動物の声が聞こえなくなった人たちはきっと、春の木漏れ日に誘われもぞもぞと蠢き始める小さな命たちに気づくことはないだろう。
そっか。
「蠢く」という字を考えた人は、広大な大地から響き渡る虫たちの喜びの声に急き立てられるように、慌てて字を作ったに違いない。もちろん、勝手な想像ではあるが。
「蠢く」。よく見ると、それほど悪くない。っていうか意外にいいかも。生命力あふれる虫たちの歓喜と一斉に地を這う地響きが聞こえてくるようだ。あの日の春の日差しまで感じる。うんうん、まるで字が蠢いているように見えるよ。
来年の啓蟄も、自然や生き物たちの声が聞ける私でありたいな。
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この記事を読んで、かめのぼるさんが 『蠢く、春という神輿をかつぐ虫たちのお祭りにも見えて来ました。』 という素敵な感想を寄せてくださいました!「蠢く」という字がもっと生き生きとした虫たちの春の喜びを表現した字に思えてくるから、さすがです。 かめのぼるさんは漢字に関する記事を多く書かれていて、読むたびに今まで何気なく書いていた漢字に命が吹き込まれるような、そんな気持ちになります。
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