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温故知新(26)徐福 物部氏 燕国 青谷上寺地遺跡 投馬国 天女(豊受姫命 𧏛貝比売・蛤貝比売) 乙女神社 奈具神社 眞名井神社 ヴィーナス  

 太古の先秦時代、東夷は山東省にあった諸民族を指し、華夏族の起源の一つで、象形文字の「夷」は、矢に縄を巻き付けたさまを表しているようです。中国戦国時代の儒学者である孟子は『孟子』において、「舜は諸馮に生まれて負夏に移り、鳴條で亡くなった東夷の人である。文王は岐周に生まれ、畢郢に死した西夷の人だ」として、中国神話に登場する五帝の一人の「」は「東夷」の人、周の文王は「西夷」の人であると述べています(東夷 - Wikipedia)。

 物部氏は、秦の始皇帝に仕えていた徐福とともに紀元前3世紀に海から渡来してきた渡来人で、日本に弥生文化の種を蒔いたと考えられています。徐福に関する伝説は、中国、日本、朝鮮半島に多数残り、多くは『史記』の記述に基づいています。徐福の出航地については、『淮南衡山列伝』に基づき、紀元前219年の第1回出航は河北省秦皇島(しんこうとう)市が有力とされています。秦皇島市は、古代の孤竹国の領域で、戦国時代には(えん)の遼西郡に編入されています。(紀元前1100年頃 - 紀元前222年)は、中国に周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在した国で、現在の中国河北省北部、北京市、天津(てんしん)市を本拠地とした国でした。

 徐福が辿り着いた地として伝承が残っている三重県熊野市波田須町には徐福ノ宮があり、彼が持参したと伝わるすり鉢をご神体としています。1960年代に徐福ノ宮の参道修復工事で秦代の半両銭が発見されています。天津と徐福ノ宮を結ぶラインの近くには石見銀山(島根県太田市)、楯築遺跡寒霞渓日前神宮・國懸神宮があります(図1)。このラインは、燕国と徐福の関係を示していると推定されます。徐福は秦の始皇帝から、不老長寿の薬を探し出すよう命令されていましたが、中国の道士の錬丹術では、丹砂(硫化水銀)を主原料とする丹薬が用いられていたので、石見銀山は、徐福の一行が発見したと推定されます。

図1 天津(中華人民共和国天津市)と徐福ノ宮(波田須町)を結ぶラインと石見銀山、楯築遺跡、寒霞渓、日前神宮・國懸神宮

 徐福の伝承地としては、徐福岩のある今山八幡宮(宮崎県延岡市)や八女市が知られています。天津と今山八幡宮を結ぶラインは、鞠智城跡(熊本県山鹿市菊鹿町)、上野神社(宮崎県西臼杵郡高千穂町)の近くを通ります(図2、3)。今山八幡宮と八女市を結ぶラインは、乙姫神社(熊本県阿蘇市乙姫)や、八龍神社(福岡県八女市黒木町)の近くを通ります(図4)。また、八女市と徐福の生誕地として知られる徐福村のある金山鎮(中華人民共和国 江蘇省 連雲港市)を結ぶラインは、徐福の伝承地の佐賀市や、松浦党発祥の地の松浦市の近くを通ります(図2、3)。

図2 天津と今山八幡宮を結ぶライン、八女市と金山鎮(中華人民共和国 江蘇省 連雲港市)を結ぶライン
図3 天津と今山八幡宮を結ぶラインと鞠智城跡、上野神社、今山八幡宮と八女市を結ぶラインとと乙姫神社、八龍神社、八女市と金山鎮(江蘇省 連雲港市)を結ぶラインと佐賀市、松浦市

 徐福の墓という伝承のある八女市の童男山古墳群(どうなんざんこふん)と天津を結ぶラインの近くに、吉野ケ里遺跡徐福が神山・蓬莱山と思って登った金立山があり、『魏志』倭人伝の末盧国にあたる佐賀県唐津市呼子町の加部島にある田島神社があります(図4)。田島神社は、松浦党や玄海の漁師たちが信仰した三女神を祀り、宗像大社の元宮ともいわれます。このラインは、宗像神社(対馬市)とレイラインでつながっている吉野ケ里遺跡に多岐都比売命(倭迹迹日百襲姫命と推定)や、市寸島比売命(丹生津姫命と推定)が居たと推定されることと整合します。「九州」というのは、古代中国の東西と南北を3つずつに分割した世界観のようです。

図4 童男山古墳群と天津を結ぶラインと吉野ケ里遺跡、金立山、田島神社

 紀元前246年から紀元前208年にかけて造られたと推定されている秦始皇帝陵(陝西省西安市臨潼区)と金山鎮(江蘇省 連雲港市)を結ぶラインの近くに、中国では夏王朝の王都があったと考えられている河南省の二里頭遺跡があります(図5)。徐福は、夏王朝と関係があったと思われます。

図5 秦始皇帝陵と金山鎮(江蘇省 連雲港市)を結ぶラインと二里頭遺跡

 燕の文化は、紀元前6世紀後半頃から中国東北地方南部に流入しはじめ、朝鮮半島や日本列島の古代文化の鉄器時代開始のきっかけを作ったとされています1)。紀元前195年に、燕太子丹(えんのたいしたん、? - 紀元前226年)の成員の一員あるいは遼東の豪族とみられる燕人の衛満は、古朝鮮に亡命し、衛氏朝鮮を建国しています。

 祖父の遺したものに、岡山県瀬戸内市邑久町で見つかったと推定される古代中国の銭貨があります(写真1)。秦の始皇帝の時代の半両銭などの他に、京丹後市函石浜遺跡や沖縄県具志頭城(ぐしがみぐすく)洞穴で発見された刀銭1)と同じ形状の、燕の明刀銭や、燕でも鋳造、流通した布銭なども含まれています(写真1)。沖縄で明刀銭が発見された2か所の遺跡では、弥生式土器が集中して見つかり、中国の土器は1点もないことから、大平氏は、弥生人が貝輪の対価として使用したものと推定しています2)。明刀銭の由来は「明」の字が描かれているためですが、「日」と「月」で「陰陽」を表しているのかもしれません。丹後一宮 元伊勢 籠神社の絵馬の六芒星の中にも、月と太陽が描かれています。刀銭は、素環頭で内側に湾曲しているので、形状は、石上神宮の禁足地から発掘された素環頭大刀布都御魂(ふつのみたま)に似ているように思われます。

写真1 刀貨(刀銭) 燕(紀元前1100年頃~紀元前222年)の明刀銭、布貨(布銭、布幣)(戦国時代 前5世紀~前221年) 尖足(せんそく)平首布(尖足布) 趙・燕・中山国(鋳造) 三晋・燕・楚(流通)、半両銭 秦始皇帝 (紀元前221年中国統一~前206年)、五銖銭 前漢武帝 (紀元前141年即位~唐代621年)

 『山海経』の編者は、夏王朝の創始者で「治水神」として知られるおよびその治水を助けた伯益であると序などに記され、『山海経』のうち、五蔵山経(南山経から中山経の5巻)は最古の成立で、儒教的な傾向を持たない中国古代の原始山岳信仰を知る上で貴重な地理的資料とされています。『出雲国風土記』は、他の古風土記と異なり、『山海経』の影響を受けているといわれます(小島憲之)。日本国内で禹王の名前が入った地名や碑文内に禹王の名前が記されているものが 30 数か所近くあり、1228 年に京都鴨川に建立された「夏禹王廟」では何らかの形式での祭祀が行われていたとされています3)。第26代の継体天皇の九頭竜川治水以来、禹王は治水神と位置付けられ、第96代の後醍醐天皇から明治天皇の28代にわたり、歴代の天皇は、京都御所の『大禹戒酒防微図』と共に生活したようです3)。1630年に徳川幕府が純金で鋳造させた禹王の像は、現在、名古屋市の徳川美術館に保存されています。

 『山海経』には、「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す。」とあり、「属する」の意味は、倭は燕の属国だったという解釈と、「燕の近くの世界」にあるという意味とする説とがあります。の始祖は周建国の元勲である召公奭(しょうこうせき)で、周王朝と同じ姫姓の伯爵でした。周から出た呉も姫姓で、倭人は「江南の呉から来た」という伝承を持ち、日本は姫氏の国であるとの説があります。徳川光圀は、呉の太伯を尊敬し、太伯のいた地名「常州無錫県梅里(じょうしゅうむしゃくけんばいり)」にちなんで、自らを梅里と号したといわれます。

 中国正史で倭人の文字の初出は『漢書』地理志で、地理志地条に、「孔子は、中国の中原では正しい道理が行われていないことを残念に思い、(筏で)海を渡って九夷に行きたいと望んだ。」「楽浪郡の先の海の中に倭人がいる。百余国にわかれており、 定期的に贈り物を持ってやって来る国があった、と言われている。」などの記載があります。一方で、地理志地条には、「会稽の海の外に東鯷人有り。二十数カ国にわかれており、定期的に贈り物を持ってやって来る国があった、と言われている。」とあります。弥生時代の日本列島は、「燕」と関係する国々と、「呉」と関係する国々に分かれていたのかもしれません。

 岡山県の伝説に、吉備真備が唐帝の前で読んだという『野馬台詩(やばたいのうた やばたいし)』がありますが、これは漢の世にの高僧宝誌和尚の作った日本の未来記といわれ、解読すると始めに「東海姫氏国(とうかいきしのくに) 百世代天工(ももよてんこうにかわる)」と書かれていまし4)。は、燕の最後の君主燕王喜(えんおうき 在位:紀元前254年 - 紀元前222年)の太子です。燕の昭王(しょうおう 在位:紀元前312年 - 紀元前279年)の時代から、東方の海(東海)にある「蓬莱(ほうらい)」「方丈(ほうじょう)」「嬴州(えいしゅう)」の「三神山」を探すことが盛んとなっていました。嬴州は、日本の雅称とされています。

 「丹波」の由来をみると、「丹波」という地名が古代からずっと続いているのは、京丹後市峰山町の「丹波区」のみのようです。籠神社に近い峰山町周辺は「丹後国丹波郡丹波郷」で古代の丹波国の中心でした。峰山町は、機械金属工業の集積地として知られています。『丹後国風土記』の「天女羽衣伝説」で知られる乙女神社には、豊宇賀能売命(豊受大神)が祀られています。瑜伽山蓮台寺観音堂(倉敷市児島)にある六角堂(写真2)の内部の壁には、天女の絵が描かれています(写真3)。蓮台寺には、岡山県の指定文化財になっている多宝塔があります(写真4)。

写真2 瑜伽山蓮台寺観音堂と六角堂
写真3 蓮台寺観音堂にある六角堂内部の天女の絵
写真4 蓮台寺多宝塔

 『丹後国風土記』逸文には、奈具神社の縁起として、真奈井で水浴をしていた8人の天女の1人が老夫婦に羽衣を隠されて天に帰れなくなり、しばらくその老夫婦の家に住み万病に効く酒を造って夫婦を富ましめたとあり、この天女が豊宇賀能売命(とようかのめ)で、豊受大神であるといわれています。蓮台寺観音堂と岩井戸神社(石川県鳳珠郡能登町)を結ぶラインは、乙女神社や比沼麻奈為神社(図7)の近くを通り、豊受大神宮(外宮)とオリンポス山を結ぶラインとほぼ直角に交差し、交点付近に奈具神社(京都府京丹後市)があります(図6)。豊受大神宮とオリンポス山を結ぶラインの近くに豊受大神を祀る眞名井神社(籠神社奥宮)があります(図6)。また、岩井戸神社と豊受大神宮を結ぶラインの近くには伊須流岐比古神社(石川県鹿島郡中能登町)があります(図6)。

図6 豊受大神宮、蓮台寺観音堂、岩井戸神社を結ぶ三角形のラインと乙女神社、奈具神社、伊須流岐比古神社、豊受大神宮とオリンポス山を結ぶラインと眞名井神社
図7 図6のラインと乙女神社、比沼麻奈為神社、奈具神社、眞名井神社

 日前神宮・國懸神宮、皇大神宮(内宮)、元伊勢籠神社は、パレルモとレイラインで結ばれていますが、元伊勢外宮 豊受大神社丹波国一之宮 出雲大神宮(京都府亀岡市)とパレルモを結ぶラインの近くにあります(図8)。乙女神社の近くに、燕の明刀銭が見つかった函石浜遺跡があります。京都府与謝郡伊根町には、宇良神社(浦嶋神社)や新井崎神社があり(図8)、新井崎神社には、徐福が祀られています。新井崎神社の若狭湾対岸には、大虫神社のある丹生郡があります。

図8 出雲大神宮とパレルモを結ぶラインと元伊勢外宮 豊受大神社、パレルモと貴船神社を結ぶラインと元伊勢籠神社、丹後半島周辺の神社と函石浜遺跡、大虫神社

 チャタル・ヒュユクと比叡山を結ぶラインの近くに大呂神社(京都府舞鶴市)、九頭竜大社(京都市左京区)があり、比叡山とパレルモを結ぶラインの近くに貴船神社、元伊勢籠神社があります(図9)。比叡山には、日吉大社があり、かつては日枝の山(ひえのやま)と呼ばれ、高野山と並び古くより信仰対象の山とされました。

図9 チャタル・ヒュユクと比叡山を結ぶラインと大呂神社、九頭竜大社、比叡山とパレルモを結ぶラインと貴船神社、元伊勢籠神社

 『古事記』において、刺国大神(須佐之男命と推定)の娘の刺国若比売丹生津姫命と推定)は、八十神たちに殺された息子の大国主神を見て嘆き悲しみ、高天原の神産巣日神に懇願し、遣わされた𧏛貝比売・蛤貝比売と共に蘇生させています。ヴィーナスの誕生にも描かれているホタテ貝には再生という意味が含まれているそうです。ローマ神話のヴィーナスに相当する、ギリシャ神話のオリンポス十二神の一柱である愛と美の女神アフロディーテは、元来は、古代オリエントやアナトリアの豊穣の植物神・植物を司る精霊・地母神であったと考えられ、古くはシュメール神話に登場するイナンナメソポタミア神話において広く尊崇されたイシュタル、カナンのアスタルトなどと起源を同じくする女神です。豊受大神は、宇迦之御魂神と同一神と考えられ、「宇迦」は穀物・食物の意味で、穀物の神なので、𧏛貝比売・蛤貝比売は、籠神社や乙女神社に祀られている豊受大神(豊受姫命)と思われます。

 「燕」や「白鳥」は、オリンポス十二神の一柱であるアフロディーテの聖鳥です。田中英道氏によると、中国では、外国人に対して出身国から漢字の1字を採用して名付けたとされるので5)、アフロディーテは「燕」の国名と関係があるかもしれません。瀬戸内海をエーゲ海と見なしたとすると、付近に高天原があったと推定される倉敷市にある由加山(瑜伽山)をオリンポス山と見なし、宇迦之御魂神(豊受大神)を祀ったのかもしれません。

 父は剣道6段で書を趣味としていましたが、「福如東海(ふくとうかいのごとし)」と書かれた、高野佐三郎(たかのささぶろう 号は靖斎 1862年~1950年)の書があります(写真5)。

写真5 「福如東海」 靖斎

 高野佐三郎は、祖父である忍藩松平下総守の剣術指南高野苗正につき小野派一刀流組太刀を学び、その後山岡鉄舟の門人となりました。警視庁撃剣世話掛、東京高等師範学校教授などを歴任した「昭和の剣聖」と称される昭和初期剣道界の第一人者で、称号は大日本武徳会剣道範士です。居宅は秩父神社境内にあり、秩父神社の森の中の道場で生まれた時、祖父は当時有名な刀剣師を呼び、庭に新しくふいごをしつらえて、大小2本の刀剣を鍛えて出生の祝いとしたそうです6)。また、6歳の時には、藩公から備前長船祐定の刀をもらっています6)。高野家は元来、秩父絹の検査役の家柄でした6)。高野氏の由来は数多くありますが、紀直氏系の高野氏があり、『新撰姓氏録』の和泉国神別に「高野。大名草彦命之後也」とあります。大名草彦命は、饒速日命と推定されるので、高野佐三郎は、垂仁天皇(高野御子大神)の後裔かもしれません。瀬戸内市長船町には崇神天皇社があり、崇神天皇の陵墓と推定される浦間茶臼山古墳垂仁天皇の陵墓と推定される金蔵山古墳にも近いので、高野佐三郎が忍藩松平下総守から備前長船祐定の刀をもらったことと関係があると思われます。

 高野佐三郎の祖父は、禅学を坂井守道禅師に就いて学び、書道にも通じていたようです6)。「福如東海」の「如」の女偏、平仮名の「め」に近いので、平仮名の基になった草書体かもしれません。8世紀に成立した『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』などで使われた万葉仮名は、漢字を使って日本語の音を表したもので、9世紀ごろから平仮名が使われるようになったと考えられています。『五體字類』(西東書房)によると、靖斎の「海」は、はじめ隋に仕え、草書の達人だった李靖(571年~649年)の書に似ていると思われます。「靖斎」の号とも関係があるかもしれません。 茨城県立歴史館に移設されている「旧水海道(みつかいどう)小学校本館」の扁額(写真6)の「海」は、靖斎の「海」に比較的似ています。この扁額は、明治13年(1880)に川田剛(かわたごう 号甕江(おうこう) 1830年~1896年)の書を基にして作られていますが、川田は備中(岡山県)の回船問屋「大国屋」に生まれ、明治漢文学会の宗主といわれた人物です。甕江の「水」は、王羲之(303年~361年)の草書に似た、渦を巻いているような字体ですが、靖斎の「海」は、甕江の「海」よりさらに渦を巻いています。もしかすると、甕江は靖斎より32歳年上ですが関係があったのかもしれません。素人考えでは、平仮名は、漢字と渦巻文様が組み合わさってできたように思われます。

写真6 「水海道学校」扁額の「水海道」部分

 「福如東海」は、元は「福如東海長流水 寿比南山不老松」という対句で、「福は東海への水の流れのように長く、寿は南山の松のように老いることはない。」という意味です。「寿比南山」という文句は、『詩経・小雅・天保』から出ていて、『詩経』は、周時代に作られたもののようです。「徐福」は、紀元前512年に呉に滅ぼされた「徐」に由来するとも考えられていますが、もしかすると「福如東海」の「如福」に由来する名称かもしれません。

 新潟県には、金属加工業が盛んな燕市(つばめし)があり、古くは「津波目」と表記され、「津」は港、「目」は中心地を意味していたようです。チャタル・ヒュユクと天香山命(高倉下命 大国主命 孝元天皇と推定)を祀る越後一宮彌彦神社(やひこじんじゃ)を結ぶラインの延長線上に、彌彦神社大鳥居や燕市があります(図10)。物部神社の社伝によると宇摩志麻遅命は、尾張・美濃・越国を平定した後、新潟県の弥彦神社に鎮座したとされるので、丹生氏の系図にある莵道彦は燕市と関係がありそうです。古代中国の「燕」は、籠神社にある国宝の「海部氏系図」の海部氏や吉備海部直と関係があると思われます。

図10 チャタル・ヒュユクと彌彦神社を結ぶラインの延長線と大鳥居、燕市

 鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡は、約2,200年前より集落がつくられるようになり、1,700年前の古墳時代前期に衰退するまでの約500年間、弥生人の生活の場としていました。古墳時代(3世紀後半から6世紀)の初めの約100 年間を古墳時代前期というようですが、神功皇后は391年に新羅征伐に向かったと推定されているので、青谷上寺地遺跡が衰退した古墳時代前期は、品陀真若王(出雲建)が亡くなったころと推定され、吉備の邪馬台国が衰退した時期と考えられます。

 発掘された弥生時代後期とみられる人骨についてY染色体ハプログループを分析した結果は、4点のうち2点は縄文系のC1a1系統だったようです。篠田謙一氏らの報告によると、男系のY染色体の解析からは、3点は縄文系(C1、D)で、1点が渡来系弥生人(O)で縄文系が多く、一方母系のミトコンドリアDNAの解析からは渡来系のハプログループが大多数だったようです。出土人骨には、殺傷痕のあるものがあり、2世紀の後半の倭国大乱の時期に亡くなったことが判明しています7)。一方、ミトコンドリアDNAの解析では、中国大陸からの渡来人が多く認めらました。

 丹後地方は、弥生時代中期後半(前1世紀頃)から古墳時代初頭(3世紀中頃)に作られた四隅突出型墳丘墓の空白地帯になっていて(図11)、青谷上寺地遺跡は境界付近に位置しています。出雲市の山持遺跡からは朝鮮半島の土器が多数出土していますが、島根県松江市の神魂神社(かもすじんじゃ)は、金容雲氏によると、韓国の天孫降臨の神話に扶余王家の始祖・解慕漱(ケモス)と関連があるとされます8)。「王者のハプログループ」によると出雲王朝のY染色体ハプログループは、百済や扶余王家と同じC2c1aです。四隅突出型墳丘墓の稲山墳墓がある安芸高田市には、主祭神として素戔嗚尊を祀っている清(すが)神社がありますが、以前から祇園社として存在していたので、百済系渡来人の神社だったと思われます。高志国の九頭竜川の付近にも四隅突出型墳丘墓があります(図11)。

図11 四隅突出型墳丘墓の分布 
出典:https://blog.goo.ne.jp/himiko239ru/e/954b91df31703e1633f9cae18849823a

 青谷上寺地遺跡には、杉の板材を用いた護岸施設が残っていて、青谷横木遺跡や青谷上寺地遺跡で発見された古代山陰道では、道路盛土内に枝や葉を敷く「敷葉・敷粗朶(しきば・しきそだ)工法」と呼ばれる当時における最先端の土木技術が用いられていたことが明らかとなっています。岡山県倉敷市の上東遺跡の波止場状遺構でも敷粗朶工法が用いられているので関連があると推定されます。多くの鉄製品は、中国・朝鮮半島・北部九州の特徴を持ったものが見られ、古代中国の鏡や新の時代(1世紀初頭)の貸泉(かせん)や刀銭に似た小刀などもあります。他に、かごや編み物渦巻文様のある水銀朱で彩色された盾も出土しています(写真7)。

写真7 青谷上寺地遺跡出土の朱塗りの盾 出典:弥生時代の武器https://www.pref.tottori.lg.jp/secure/1233499/%E8%A8%82%E6%AD%A3%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%AD%A6%E5%99%A8.pdf

 唐古・鍵遺跡とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くに、投馬国と推定される弥生時代の青谷上寺地遺跡があります(図12)。また、青谷上寺地遺跡は、丹生都比売神社とパレルモを結ぶラインの近くにあり、このラインの近くには、丹生津姫命や瓊瓊杵尊の墓があると推定される天王山古墳群があります(図13)。

図12 唐古・鍵遺跡とギョベクリ・テペを結ぶラインと青谷上寺地遺跡
図13 丹生都比売神社とパレルモを結ぶラインと天王山古墳群、青谷上寺地遺跡

 北海道の旭岳と九州の幣立神宮を結ぶラインは、縄文時代の大船遺跡、青谷上寺地遺跡、倭文神社の近くを通り、丹生都比売神社とオリンポス山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図14)。旭岳と丹生都比売神社を結ぶライン上には伊吹山があり、丹生都比売神社と幣立神宮を結ぶラインの近くには高土佐一之宮 土佐神社(高知市)や土佐 国分寺(南国市)があります(図14)。

図14 丹生都比売神社と幣立神宮を結ぶラインと土佐国分寺、土佐神社、幣立神宮と旭岳を結ぶラインと倭文神社、青谷上寺地遺跡、大船遺跡、旭岳と丹生都比売神社を結ぶラインと伊吹山、丹生都比売神社とオリンポス山を結ぶライン

 邪馬台国があったと推定される吉備は、青谷上寺地遺跡のほぼ真南にあり、青谷上寺地遺跡と高砂山(邑久町山手)を結ぶラインの近くには、サムハラ神社 奥の宮崇神天皇社のある靭負神社があります(図15)。鳥取から那岐神社(鳥取県八頭郡智頭町)の近くまでは千代川、土師川を遡ることができ、百枝八幡宮(邑久町尾張)と白兎神社を結ぶラインの近くにある河井神社(津山市加茂町)の近くから靭負神社までは吉井川を下って行けます(図15)。『魏志』倭人伝にある投馬国は、青谷上寺地遺跡の場所で、朝鮮半島から鉄や馬などの輸入を行っていたのかもしれません。

図15 青谷上寺地遺跡と高砂山(邑久町山手)を結ぶラインとサムハラ神社 奥の宮、靭負神社(高砂山の表示はGoogleマップから削除されました)

 このルートの近くには、白兎神社、因幡国庁跡、多紀理毘売命と推定される八上比売命を祀る賣沼神社(鳥取市河原町)などがあります(図16)。河井神社の上流には、阿波や吉井川源流の碑があります(図17)。靭負神社の近くには、中世から近世において宿場町・市場町として栄えた長船町福岡があります(図18)。福岡の周辺には邪馬台国(やまとのくに)の王族の墓と推定される古墳が多くあります(図18)。『魏志』倭人伝によると倭が魏に朝貢した時の物品として、布きれ( 倭錦・絳青兼・緜衣・帛布・雑錦など)、丹(辰砂)、弓矢、珠などが記されています。図13のルートが古代の大陸との交易ルートの一部だったとすると、吉備国からこれらの物品が輸出されていたのかもしれません。そうすると、邑久町山手で、写真1の古代中国の銭貨が見つかった理由もわかります。

図16 青谷上寺地遺跡、因幡国周辺の神社、那岐山
図17 吉井川源流の碑、阿波、那岐神社、河井神社、サムハラ神社 奥の宮
図18 靭負神社、長船町福岡周辺の古墳、高砂山(邑久町山手)

 紀元前500年~紀元前450年(春秋)の燕国の青銅製礼器には、隼人の楯のような逆S字状の連続渦巻文(鈎形)や、籠神社巴紋(左三つ巴)のような文様が見られます1)(写真8)。アイヌの文様にも似ているので、燕国人には、縄文人の系統が多かったと思われます。また、燕国人は、キンメリア人とも関係があるかもしれません。

写真8 燕国の青銅製礼器の文様 出典:「春秋戦国時代 燕国の考古学」雄山閣1)

 青谷上寺地遺跡が作られた年代と燕の最後の君主燕王喜の時代がほぼ一致するので、「如福」は、燕の「丹」太子と関係があり、「丹生」や「丹党」の「丹」と関係があるかもしれません。多氏に尾張丹波臣(丹羽県主)がいますが、戦国時代の丹羽氏は尾張丹波臣の後裔とされています。第6代孝安天皇伊弉諾尊と推定)の母は、尾張連祖の瀛津世襲(奥津余曽)の妹の世襲足媛尊とされています。もしかすると、伊弉諾尊と伊弉冉尊から始まる国生み神話は、多氏が関係しているのかもしれません。

 多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)は、燕国の後期、紀元前4~5世紀頃、中国の華北から北東の匈奴の先祖たちが好んで使用していたもので、福岡県の吉武高木遺跡(よしたけたかぎいせき)から出土し、同じものが奈良県御所市名柄と大阪市柏原市大県からも発掘されています9)。弥生早期の初め頃の福岡県糸島市二丈町の曲り田遺跡から見つかった鉄器は、燕の鋳造鉄と考えられています10)。最近の教科書では、弥生時代のはじまりを紀元前10世紀とする新しい研究成果も紹介されています。

 『古事記』の大八島国の生成の段で、淡路島の次に四国を生み、吉備児島や小豆島などは後の方になっているのは、国の領域の拡大を反映しているのかもしれません。豊玉姫命や大国主命は、龍信仰と関係していますが、弥生時代後期の、奈良県の唐子・鍵遺跡、岡山県の天瀬遺跡、兵庫県の玉津田中遺跡、大阪府の池上曾根遺跡など主として近畿地方から岡山県の瀬戸内海沿岸にかけての遺跡から、龍とみなされる動物を描いた土器片が出土しています(『仙界伝説』大阪府立弥生文化博物館)。安田氏によると、稲作をもたらした倭人(弥生人)は、龍信仰を持っておらず、龍よりは太陽と鳥を崇拝する長江流域の人々であった可能性がたかいようです。また、王権が誕生する弥生時代後期は、気候悪化期で、龍と結びついた治水(灌漑施設技術)などによる農業振興が、王権の確立と深く関わっていたようです11)。縄文系の日本固有種であるC1a1系統は、徳島県に10%と比較的多く、龍信仰の人々と関係があるかもしれません。

 2021年に、金沢大学などが古人骨をゲノム解析した結果、日本人は、縄文人と、弥生時代の北東アジアに起源をもつ集団と、古墳時代の東アジアの集団の3つの祖先をもつことが分かったとしています。八咫鏡は、周尺で作られていると考えられるので、弥生時代の初期に燕国の渡来人が作ったのかもしれません。八咫鏡には、古代ヘブライ語に似た文字が書かれているともいわれています12)。八咫鏡は、縄文人と弥生人の共通の神器として作られたのかもしれません。
 
文献
1)石川岳彦 2017 「春秋戦国時代 燕国の考古学」 雄山閣
2)大平 裕 2018 「卑弥呼以前の倭国五〇〇年」 PHP新書
3)王 敏 2018 「日本における禹王信仰の現存形態及びその現代的価 値」 法政大学国際日本学研究所 国際日本学 15 p3-33
4)藤沢衛彦 2019 「日本の伝説 山陽・山陰」 河出書房新社 
5)田中英道 2018 「日本国史 世界最古の国の新しい物語」 育鵬社
6)堂本昭彦 1989 「高野佐三郎 剣道遺稿集」 スキージャーナル
7)篠田謙一 2022 「人類の起源」 中公新書
8)金 容雲 2011 「「日本=百済」説」 三五館
9)大平 裕 2021 「古代史」 PHPエディターズグループ
10)臼井洋輔 2022 「備前刀前史」 刀剣画報「備前の刀」p42-47 (株)ホビージャパン
11)安田喜憲 2001 「龍の文明 太陽の文明」 PHP新書
12)久保有政 2014 「日本とユダヤ 聖徳太子の謎」 学研パブリッシング