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夕焼け空と赤シート

僕は「赤シート」という存在が大嫌いだった。
赤色というのは、血から由来してDNAにとっても危険信号を発するそうだが、おそらくこの赤シート嫌いはそこから来てはいない。

赤シートは、赤色のペンで書いた字を一時的に見えなくするために使う文房具だ。おそらく昔使っていた方や、今使っている方もいるかもしれない。中学時代から暗記に苦戦した僕はずっとお世話になっていたのだが、「自分で書いた言葉を自分で覚えていない」という事実を何度も突きつけられる感覚が大層不可解だったのだ。

おそらく頭のなかには大きな赤シートがあって、それが虫食いのような記憶を生み出しているんじゃないだろうか、なんて妄想がある日浮かんだ。
ちゃんとこの手で、この身をもって書いた言葉たちがどんどん失われていく。覚えていたいこと、覚えていなきゃいけないことほど、意地悪な空白となって眼前に現れる。泣き笑いしていたあの子は何をぽつんと呟いたのか。ホーム越しにあの人が届けようとした声はどんな形だったのか。
覚えていない。きっと忘れてはいけないことだったのに。

それからは世界を赤シート越しにしか見られない、たいせつなことをポロポロ零してしまう自分に嫌気がさしていた。特別な瞬間、例えばクリスマスに友人とスマブラをしてから微睡んでいる時なんかに、(きっとまた、この事もいつか忘れてしまうのか)とふと考える。その考えは、どれだけ楽しかったり、きらきらしてたり、ヒリヒリしていても影のようにぴったりと足をとらえて離さなかった。


丸括弧の中身がぶくぶく泡だってやがて消えてく電話をしてる
ミラサカクジラ

そう、きっとそれは僕だけの問題じゃない。どの人も、忘れながら生きていくのだ。それでいて消したい記憶ほどこびりついて錆になる。入学式の胸の高まりを忘れた卒業生や、結婚式の煌めきを忘れた夫婦もいるかもしれない。

でも人間という生き物は、その空白を埋める「想像力」がある。隣の芝生は青いのと同じように、大抵は過去の芝生は青いのは、その想像力の産物だと言えるかもしれない。きっとあの時、泣き笑いしていたあの子は「ありがとう」って言ったはずだし、ホーム越しにあの人が届けようとした声の形は優しい色をしていたはずなんだ。そう思いたいから、そういう過去に置き換わってしまう。
セピア調に、幸せを見出してしまう。

結局、本当に大切にしないといけないのは「今」なんだ、と最近思うようになった。セピア調の過去に拘泥しないで、今を忘れてしまうかもしれない未来を恐れない。そんなふうに生きられたらどんなに素敵だろうか。今、夕陽が窓から差し込んでいる。今、僕は言葉を書いている。今、僕はたしかに生きている。そう、言葉を書くことが僕にとって1番の「今、の真空パック」みたいなものだった。


六日目の蝉がラジオと張りあってここにいるよと叫んでる夜
ミラサカクジラ

「こ、こんな、こんなにも」吃音的に  生きてる輪郭教えたくなる
ミラサカクジラ

電車の中で、受験生と思しき人が赤シートを夕焼け空にかざしているのを僕は見たことがある。特に意味は無い行動だったのかもしれないが、僕はその時はっとさせられた。次の日の夕方、僕も家に眠っている赤シート越しに夕焼けを見た。シート越しにもひかりはすらすらと流れ込み、やはり夕焼けは夕焼けだった。だからきっと大丈夫。世界はいつか色褪せるけど、今、このひかりは、鮮明だから。いつだって今は鮮明に、時に痛みを持って僕らと共にあるんだ。それすら愛せたならば、と願ってやまない。だって、今、僕は生きているんだから。


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