「傘」を用意する生き方
こんにちは。AKERUです。
前回と重複する内容でもありますが、大事なことだと思ったので、自分が忘れないように、もう一度整理させてください。
「人生は辛いことばかり」だと悲観するのは極端ですし、プラスなことを見逃してしまいます。
「人生は楽しいことばかり」だと楽観視するのは、現実とそぐわず無理があります。
人生は空の天気と同じだと、自分は考えています。
ただ「雨よ降るな!」と祈っても雨は降ります。
「これは雨じゃなくて恵(めぐみ)だ」と思い込もうとしても、雨は雨ですし、濡れれば風邪を引きます。
「なんで自分の空ばかり雨が降るんだ」と嘆いても雨は止みません。
「この雨は自分のせいだ」と自己否定しても、心まで雨に濡れてしまうだけです。
晴れる時は晴れるし、雨が降る時は自分の意思とは関係なしに雨が降ります。
自分の思い通りにならない世界に、人間は生きています。
そのため、雨を嘆くのではなくて、「傘」を用意する生き方の方が、何倍も建設的なのではないかと思います。
どのような傘を持っているかが、大切なんですね。
例えば、辛いときに自己否定しない、という習慣。
他にも…
・ストレスを分散させる趣味。
・過去に固執しない生き方。
・自他を区別する視点。
・仕事だけではないスケジュール。
こういった考え方や習慣、または環境などは、辛い雨から身を守る傘のような存在となります。
これらを事前に準備しておくだけで、雨が降った時に、必要以上に苦しむことはなくなります。
ただ、簡単に言うようですが、その傘を持つことを妨げる「トラウマ」や「思考のゆがみ」などがある場合も少なくないので、結構手こずることもあるんですね。
自分の場合、これまで適応障害や気分変調症、双極性障害と診断されたり、会社を休職するほどメンタルを病んだこともあります
ちなみに大学も浪人・留年しています。
思い返せば、辛いことがある度、周りに手助けがないなか、のらりくらり生きてきたように思います。
それでも、小手先の処世術では限界がきて、双極性障害にもなりました。(躁鬱病のことです。)
そんな苦しい時期に、大量の本を読んだり、一晩中考えたり、周りに迷惑をかけたりしながら、手にした考え方や習慣がたくさんあります。
きっとこの先も同じように、何かある度に悩み、対策を講じながら、生きていくのだと思います。
そして、ちょっとずつ、経験の引き出し(傘の種類)が増えるにつれ、対応できる雨のパターンも増えていくはずです。
昔はずぶ濡れになった雨も、いまでは防ぐことができると思っています。
ただ、そのためには、やはり自立して、自分で傘を用意しなければならないんだと思います。
自立していないと、最悪の結末が待っています。
一例を挙げると、幼少期に親からの精神的援助が不足していた場合、「もっと支えてほしい」という願望を引きずります。(親子の立場が逆転してるケースなど)
そのため、辛いことがあったときに、自分で解決しようとせずに、受け身でサポートを待つことに終始してしまうのです。
また、サポートされることは、人に優しくされることなので快感になってしまい、「自分は可愛そうでしょ?」といったアピールをする癖がついてしまいます。
そんな人のことを、アダルトチルドレンと呼ぶのだと、自分は思っています。
これは、年齢は関係ないんですね。おばあちゃんでも、アダルトチルドレンはたくさんいます。
これの何がいけないかというと、他人に優しくしてもらうということは、他人の体力や時間を奪ってしまうということです。
そして、「自分は可哀想なんだから当たり前でしょ!」と思ってしまうことで、感謝の気持ちもなくなり、最終的に嫌われ、傘もさしてもらえなくなります。
ただ、唯一それが嫌われずに許されるのが、子どもだけなんです。
子どもは、法律的に言うと、制限行為能力者であって、大人よりも「わがまま」が許されている存在です。
精一杯甘えていいんです、周りの大人に。
それが未完了で大人になってしまうから、周りに庇護を求める受け身な大人になってしまいます。
また、別の事例として、自分の傘を誰かにかざして、肝心の自分が雨を防げずに、濡れてしまっているというケースもあります。
どちらかというと、自分はこのケースに該当していたのではないかと思います。
具体的には、小学生の頃から、30歳付近で適応障害になるまで、母の父に関する愚痴や恨み言の聞き役になっていました。
自分自身が会社のパワハラに合うなど、辛い状況にありながら、母のマイナスな面を支えようとしてしまい、潰れました。
そして、なおかつ、内心では、そんな自分に誰か傘を刺してほしいと、母と同じように受け身な姿勢・願望も併せ持っていました。
ただ、最近になって、鬱症状や希死念慮を何回も乗り越えた末、そういう考え方や習慣が、自分の苦しみを大きくしていると、ようやく気がつくことができました。
例えるのであれば、雨がジャンジャン降っているのに、傘を誰かに貸したまま、ずぶ濡れになっているようなものでした。
仏教的では、誰かに柄杓(ひしゃく)で水を与えれば、巡り回って、自分も水をもらうことになるという考え方があります。
自分はこの考え方が、あまり理にかなっていないのではないかと思っています。
なぜなら、水を与える人は、つい与えてばかりになりますし、水をもらう人は、それが当たり前になり、自分で水を得ようとしなくなるからです。
1番いいのは、みんなが自立して、自分で柄杓を手にすることなのではないでしょうか。
一見すると、水をもらっている人は楽に見えるかもしれませんが、不自由な点で誰よりも不幸です。柄杓を持っている優しそうな人の側にいないと、生きていけないのですから。
もちろん、柄杓の作り方が分からなければ、親切な人がいれば、教えてもらうことくらいは許されるかもしれません。
しかし、最後には自分の柄杓を持たなければなりません。
つまり、先ほどの例えをすると、自分で傘を用意する生き方をした方が、どう考えても建設的なんです。
思い通りにならない理不尽な出来事を恨んだり、不幸を嘆くのではなく、そこから過度にダメージを受けない考え方や習慣、環境、逃げ道を手にすることの方が、よっぽど生きやすいのではないかと思います。
もちろん、難しいことではありますし、トラウマの重さ次第で、時間がかかることもあると思います…。
最近は、そんなようなことを考えているというお話でした。
最後までご覧いただきありがとうございました。