本気の謝罪は自分を愛しているからこそできること。
先日、電車の中で、小さい男の子連れの女性が、何やら誤解してその子を叱ってしまったのか、すっかり拗ねた表情の男の子に何度も謝っていた。
すると、その親子の隣に座っていた年配の女性が、こんな風に声をかけた。
『あなた、子供に謝っちゃだめよ』
『子供にそんな事でいちいち謝ってたら、そのうち親の言うこと聞かなくなるわよ。』
この年配の女性のように、たとえ自分が間違ったとしても、相手との関係性によっては、謝るべきではない、と考えている人がいる。
これは、謝罪 =『負け』を認める行為 と,捉えていることによるもの。だから、負けたくない相手や、負けるわけにはいかない相手への謝罪は、『プライドが許さない』とか、『相手が自分をなめてかかる』と思うのだ。
こんな思考回路では、『謝罪』というコミュニケーションの本来の意図が完全にゆがめられていることになる。
そもそも、謝罪はなんのためにするのか。
当然、勝ち負けを決めるためのものではない。それによって立場を脅かされるようなものでもない。それなのに、そう感じる人がいるのは、謝る行為について『間違いを認めること』という認識で止まっているせいだ。
だから、謝罪することで自分が相手より劣った存在になり、相手に付け込まれてしまう、という発想をする。
謝罪は、自分の行為が間違いであったことを認めるだけでなく、その対象になった相手を尊重し、誠実に向き合う上での行為だ。
そんな謝罪を、普段どういう態度でしているか、ということが、実はその人の『自分を愛する姿勢』ともつながってる。
独裁者でない限り、自分がされたら嫌なことは、人にしないほうがいいと思うものだろう。
その価値観がある人ならば、謝罪についても、相手に適当にされるのが嫌なら、自分もそうしないほうがいい、と理解しているはずだ。
その上で、人に対して適当な謝罪をしたら、相手だけでなく、あなたの心も傷ついてしまう。なぜなら、あなたが良くないと思っていることを、自分にさせたからだ。
もっと言えば、良くないと思うことをする自分を、あなた自身が否定的に見るのをわかっていながらその行動をしたのだから、自分で自分を虐めているようなものなのだ。
反対に、『本気の謝罪』をする人を、あなたが肯定的に見るなら、同じ態度で謝罪する自分自身の事を、あなたの心は信頼をもって見ているだろう。
言うまでもなく、『あやまりゃいいんでしょ…』という開き直り型や、とりあえず謝る、という空気読み型の謝罪は、『本気の謝罪』とは言えない。
『本気の謝罪』は、自分がしてしまった間違いを理解し、その自分を受け入れてからでしかできない。
間違いの大きさによっては、許されない可能性とも向き合うことになり、強い怖れも感じてしまう。
それを超えての『本気の謝罪』は、自分自身への誠実さと同時に、相手の尊厳も大切にしている、自他愛があらわれた行為となる。
そういうわけで『本気の謝罪』は自分を愛しているからこそできると言えると同時に、自分を愛そうとする気持ちがないと、『本気の謝罪』には向き合えないということでもあるのだ。