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腑に落ちる『内臓とこころ』三木成夫
1982年に初版が出版された本である。
つまり、少し古い。1982年に生まれた子は、今年40歳になる。
なぜその時の子供が今は、という話をしたかというと、この本が保育園で行われた保護者向けの講演を原稿化したものだからだ。
もし三木先生が今ご存命なら、97歳だ。そのため、本書の中の先生の言葉遣いは少々古式ゆかしい。時折出る冗談も、当時の時節に合わせたものだったりするのでお若い読者には意味が良くわからない部分もあるかもしれない。
著者の三木成夫氏は、解剖学者で、『バカの壁』などで著名な養老孟司氏の恩師に当たる方だ。この本を上梓して5年後、60代の若さで亡くなられている。専門は比較解剖学、比較発生学。
養老孟司氏は、2013年の文庫化の折に、巻末に解説を寄せている。養老氏が三木成夫氏を敬愛されている様子が端々にうかがえる解説文で、なんとなく現代の読者である私も三木氏を「三木先生」とお呼びしたくなる。
まさに養老氏もまた、三木先生に育まれた人のひとりだったのだろうと思う。
先日、さかなクンの番組を見ていたら、クラゲのことを紹介していた。
クラゲというのは5億6千万年前のカンブリア期に発生した生き物で、今も古来の姿をとどめている「プランクトン」なのだという。
クラゲは脳を持たない。なんなら心臓も血管もない。持っているのは目と筋肉と、消化器官のみだ。消化管にもあるのは口だけで、口と肛門は同一のものだと言うので驚いた。
消化管は生命の基本中の基本らしい。
植物もまた管で、私は時折、人間も管なんだなと思うことがある。
食べて、消化し、栄養を吸い取って、老廃物を出す。
一応、入れるところと出すところは別だ(良かった・・・)。
この本でも、話はそこから始まる。
なんと人間の顔というのは、「脱肛」と同じものだというのだ。腸の一部が飛び出し捲れて変形して顔になった、という衝撃。この脱肛部分は、鰓腸、つまり鰓だ。
また、鰓腸は人間では退化したが、あごの一部(文字通りのエラ)と喉ぼとけとして残っているということも、初めて知った。その鰓の名残と、鰓呼吸が言語を生み出したのだという。
人間の胎児がこれまでの地球の歴史を繰り返している、ということは今日よく聞くことだが、この本でも受胎後1ヵ月から1週間の間に何億年ぶんの記憶が繰り返されていると紹介されている。しかも、つわりはちょうどこの時期に起こるという。
壮大なロマンだ。
あの1億年をかけた上陸の形象を孕み、母体は、その生命記憶の重さに必死になって耐えているのか―――
これこそ”いのち”の本来の姿———「母と子」の世界の、まさに原点をなすものではないでしょうか。
保育園の講演だから、基本的には子供の話が大半を占める。つまり人間が「どうやって発生し、成長するか」という話だ。
解剖学の先生なのに全く冷徹でクールなところのない三木先生は、胎児の解剖をするときにずいぶん長い期間心の準備が必要だったとおっしゃっている。
それでも学究心で己に勝ち、胎児を研究し続けた。
よく考えるとドキッとする研究だ。しかし、三木先生の優しい語り口は文章からも十分伝わってきて、決して冷酷なメスではなかったとわかる。
本の表紙の図は、人間の胎児の受胎後38日目の容貌を、三木先生が手ずからスケッチしたものだ。それまで魚類や爬虫類に似ていたのが、38日目、突如として哺乳類の顔になったのだそうだ。それはミツユビナマケモノの赤ん坊の写真にそっくりだったとか。
人間が、いかにして「こころ」を持ちうるか、ということに対し、三木先生は「内臓の感覚がこころ」という。
膀胱の状態から排泄を学び、そこから快不快という感情が発生する。
母乳を飲み、世界のあらゆるものを舐めまわすところから口腔感覚を学び、そこから物の形態を把握したり、言葉を習得する。
胃の感覚は、日にちや年、季節のリズムと共振している・・・
口腔感覚が、世界の把握や情動や、こころの発達に関係しているというのは、どこかフロイトを思わせる。
人体が小宇宙である、とは、昔NHK「人体」のオープニングでも使っていたフレーズだが、三木先生のおっしゃることはまさにそれ。いや、もしかしたら三木先生が言ったからそのフレーズになったのかもしれない。
人間は内臓で宇宙のリズム(波動)を受け、日時、季節を把握し、それに沿って生きている、人体は宇宙のリズムと呼応しているのだ―――
なんともはや、いまどきのスピリチュアルもびっくりなことを、熱い情熱をもって述べられている。実際、現在の大きな潮流であるスピリチュアルやヨーガ哲学に符合する部分も多い。
が、三木先生のおっしゃることはそういうことではない。あくまで科学的に人体を説いている。
細かなことはこの本を読んでいただかないと伝わらないと思うが、おおざっぱに言って、地球の生き物はこの波動の影響を受け、「食の相」と「性の相」が周期的に繰り返されることによって命をつないでいるのだと言う。
誰にも教えられないのに、鳥たちは渡り、魚は川を遡上する。
人間は「食の相」はともかく「性の相」の周期はだいぶ壊れてしまっているようだが、それでも受胎のメカニズムなどは「性の相」の周期にコントロールされているという。
そのリズムと、人間社会が作った暦や生活リズムがズレるから、体調不良が起こる、と三木先生は述べられている。特に胃はそのリズムに忠実で、朝型や夜型といった個々人の特質に関係している。
それを現代社会に適応するように矯正するには、できるだけ自然界のリズムに合わせながら微調整していくことが望ましい、と提唱しておられる。
つまり、息子の朝寝坊をあんなにガミガミ叱っていた自分は、宇宙のリズムに逆らっていたということなのか・・・無駄無謀だったわけだ。
ところで、この本を読んでいて、日本語の言葉には「内臓」を始め体の部位で心の状態を能わす言葉が大変多い、ということに気づかされた。
特に「断腸の思い」とか「はらわたが煮えくり返る」とか「肝が据わる」「肝が小さい」「腹が黒い」「腹を決める」など内臓によって心の状態を表す言葉は枚挙にいとまがない。
三木先生は「のどから手が出る」という表現が、ただの比喩ではないという。舌やのどは鰓を支える筋肉(筋肉は内臓を表す「内臓系」に対して外側を表す「体壁系」に属している)によって動かされていて、のどを動かす筋肉は手を動かす筋肉と同じ「体壁系」なのだという。
なんという不思議。
昔の人は無意識に科学的に正しいことを的確に言葉で表現しているのだ。
また、脳というのは「体壁系」、心臓は「内臓系」に属している。
先生は、人は「内臓=はらわた」で感受していることがとても大きい、という。脳が頭で、心臓が心なら、心で感じる言うことは「内臓で感じる」ということなのだ、というのだ。
そして外壁系と内臓系が常に連動していて切り離すことができないように、どちらが動かされても、もう一方にも影響が及ぶ。
講演の形式なので、話が飛んだり戻ったりと、この本は決して読みやすいとはいえない。専門的な話になったり、宇宙の話になる。それでも、三木先生のおっしゃる話はどういうわけか「腑に落ちる」。
子育ての講演なので、生物学的、解剖学的な視点での子育てに関わる話も興味深いが、ここではとても語りつくせないのでぜひ、本書を読んでみていただきたい。母乳礼賛や哺乳瓶の否定など、子育て論としては少々古い、と思う方もいるかもしれないが、解剖学からみた発育論は慧眼に満ちている。
解説で養老孟司氏も言っていた。
以下は老婆心である。この本を読むときに、現代の生物学の本を読むようなつもりで読まないで欲しい。生き物とわれわれをつなぐものは、ただ共鳴、共振である。それを三木先生は宇宙のリズムと表現した。共振はどうしようもないもので、同じリズムで、一緒に動いてしまう。三木先生はおそらくその根拠を追求し、長い生命の歴史のつながりを確認したのである。二十一世紀の生物学は、おそらく生き物のそうしたつながりを確認する方向に進むはずである。またそうなって欲しいと思う。
現代人は自然と切り離され、自分が腸管を基本とした生き物であることを忘れてしまいがちだ。内臓系に目を向けず、体壁系の、後からやってきた脳の言うことばかり聞いていて、はらわたで感じない。
「考えるな、感じろ」
とは、ブルース・リーもヨーダもマーヴェリックも言っている。
あ、マーヴェリックは「行動しろ」だったか。
でも彼のあのセリフも、この「考えるな、感じろ」のオマージュだっただろう。
私たちは体の中に内なる宇宙を宿している。
宇宙の一部であり、一緒に共鳴している。
実に興味深い。
スマートフォンに半分支配されたかのように生きている我々は、時にはそのリズムに、拍動に、はらわたの言葉に、耳を傾け従うことも大切なことなのかもしれない。
三木先生の論は、科学的なことこそ善、とされた時代の真っただ中に発表されているので、実際のところ、人柄は愛されても論そのものは決してメインストリームにはならなかったようだ。そんな空気感が、養老氏の解説でもほのめかされている。
養老氏は次のように解説を結んでいる。
まもなく三木先生の時代がまたやってくる。そんな気がしてならないのである。
まさに「今こそ読みたい」本。
納得の充実した読後感だった。