メモ: 建築における公共性(物理的公共性と政治的公共性)
建築から「公共性」を捉え、
逆に、「公共性」から建築を形作る際、
以下のこと意識しないといけないと考えている。
「物理的公共性と政治的公共性を混ぜてはいけない」
今日は「物理的公共性-政治的公共性」について、メモを残す。※1
01.建築の空間、社会学の空間
「空間」という概念は、建築と社会学・政治学ではニュアンスが異なる。
仮に、前者の空間を「物理的空間」、
後者の空間を「政治的空間」と呼ぶなら、
物理的空間はその名の通り物質的で、
多くの場合具体的なサイズと外形が存在し、 壁や床、天井、境界線、その他の線や面、点やその群によって有限に規定される。
他方政治的空間は、
人と人がコミュニケーションすることでつくられる人的ネットワークや、文化や伝統的習慣が育む場所性のようなもので、
明確な外形、もしくは外的な規定が存在しない。※2
02.公共性のとは?
さて、話題を「公共性」に移す。
ハーバーマスが指摘するまでもなく、「公共性」という言葉の意味は多岐にわたり、
概念が成立するまでの歴史的経緯も1本の線ではまとめられない、超複雑な網の目のようになっている。
「オルタナティブ・パブリックネス」(下記リンク参照)を掲げ活動する自分も、
ハンナ・アレントをはじめとしたいくつかの参照元があるものの、
正直なところ、既存の公共性論をすべて網羅できているわけでない。
(重要なことは議論を網羅することではなく、参照元を明確にし自分の言葉に責任を持つことだろう)
・・・とはいえ、「公共性」の暫定的な定義をしないと話は前に進まないので、仮に以下のように説明する。
この定義に基けば、「公共的空間」の意味は自ずと
「より多くの人に開かれた、自由な空間」
ということになる。※3
03.物理的公共性と政治的公共性のギャップ
ここで、序盤に整理した「物理的空間」と「政治的空間」を、公共性に結びつけてみる。
質は違えど、いずれの空間も実社会で僕たちの生活と密接に関わっており、
必ず「その空間は公共的か?」という議論が可能なはずだ。
しかしここで奇妙なギャップが両者に生まれる。
物理的空間は上記定義の通り境界線や境界面、もしくはそれに類するものがないと成立しない。
一方、政治的空間はコミュニケーションの連鎖で作られるので、原理的には際限なく広がることができる。
すると、有限性が前提の物理的空間と(原理的には)無限な政治的空間では公共性の考え方も変わらざるを得ない。
物理的空間の公共性(「物理的公共性」と呼ぶ)は有限性の内部にとどまるのに対し、
政治的空間の公共性(「政治的公共性」と呼ぶ)は無限に原理を指向することができる、ということになる。
例え話をしてみよう。
あなたが仮に今、大学の教室にいるとしよう。
ここでは授業を集中して聴けるよう、壁で囲まれて内部空間化し、出入口は限定され、イスは黒板かスクリーンの方に向けられて配置されている。
もしかしたら外部の音が入り込まないよう防音もしっかりしているかもしれない。
これらの建築的作為は「授業を聴く」という行為・行動の自由がより約束されるための工夫ともいえるが、
反面、多くのものを教室の外部に追い出してもいる。
街行く人が突然フラッと入ってこれないように、
虫や鳥が飛び込んでこないように、
外の空気や音が入ってこないように・・・と、
室内のよりよい環境のためにこれらのモノゴトヒトは教室から疎外される。
教室という極端な例を使ったが、多かれ少なかれどのような物理的空間においても自由さには一定の疎外がついてまわる。
原理的に、すべての人にとって公共的な、全く疎外のない物理的空間は存在しないので、
物理的公共性は限定された範囲内での話にとどまる。
(教室の例えがしっくり来ない場合は、商店建築2022年3月号の連載「商業空間は公共性を持つか」山本理顕氏回における、はこだて未来大学の話を読んでいただけると良いかも知れない)
政治的空間はどうだろうか?
あなたの友達はまた誰かの友達で、それを辿っていけばほぼほぼ全世界の人とつながっている、という話もある。
確かに、世界では戦争が絶えないし、中の悪い地域同士、文化同士、思想同士、というのは存在するが、仲が悪い理由が原理的に解決不可能であることはなく、わりと些細なことがきっかけだったり、歴史の過程で偶然そうなってしまったものばかりだ。
もちろん、人間の身体も人生も有限で限りがある以上、世界中の人と友達になることは限りなく不可能に近いが、
原理的にそれが不可能であるということはないし、
現に人間の歴史は、技術と文化の進化によって、その有限性を少しずつ克服してきた過程でもある。
よって、政治的公共性は、すべての人がお互いの自由を認め合うことを指向するし、
原理的にそれが不可能とは言えない。
このように、
物理的公共性は
「有限的に限定された範囲内でどれぐらい公共性を考えることができるか?」
という議論になるのに対し、
政治的公共性は
「なるべく多くの人とよりよい関係を作り、究極的にはすべての人々が分かち合える公共性を、どのように実現していけるか?」
という議論になる。※4
また、物理的空間と政治的空間では持続性や発現の仕方も異なる。
物理的空間は上記の通り、実際に壁や床、屋根、柵、境界線、その他目印などなど、物理的な実体を伴い、空間をよりしっかり作るためにはそれ相応のコストが発生するが、
その分一度立ち上げれば(災害などの強大な外的圧力がない限り)何もしなくてもある程度は存在し続け持続する。
一方政治的空間は、小さいものであればノーコストで成立するし、当人同士の気持ち次第では最も簡単に一瞬で作ることができる。
その反面、長い年月空間を持続させるとなると、定期的に連絡を取り合ったり、意見を交換しあったり、協働して何かをやったりと、
当人達が継続して努力をし続けなければいけない。
ここまでの話をまとめると以下のような比較ができる。
04.物理的公共性と政治的公共性を混ぜてはいけない
公共性の名の下に
物理的実践も政治的(コミュニケーション的)実践も同じ方向を向いているようで、
その可能性と不可能性は全く異なる。
これらを同質のものとして考えて実践をすると、妙なチグハグや破綻が発生するのは明らかで、
実際にその現場を目撃したことがある人も多いのではないかと思う。
例えば、建築界隈では広場や公園の比喩を用いながら、政治的公共性のような無限の公共的空間を指向するケースがよくあるが、
上記の通りその試みは破綻することは決まっており、そもそも広場も公園も限定的な公共性しか持ち合わせない。
(そういう意味では公園に禁止事項が増え管理が厳しくなるのは、残念だが、当たり前のことだと思う。)※5
もちろん、これは物理的実践と政治的実践が双方殻に閉じこもればいいという話ではない。
実際の現場は双方が入り混じってしまうので、お互いができることとできないことを双方認識し、交通整理をし、双方がうまく動けるようにすることが大切だ。
また、これは社会学者 松村淳氏の受け売りだが、
物理的実践と政治的実践双方の中間地点に「コモンズ」のような領域を設け、物理的・政治的の両輪で活動するというビジョンもあり得るかもしれない。
99.補足(※1〜5)
※1
なるべく手短にまとめたいと思うので、参照元の引用はしないが、不可解な部分があったらご指定いただきたい
※2
ここまで話すと「物理的とか政治的とか言わずとも、客観的と主観的とでも言えばいいのではないか?」といった、「物理的/政治的」という言葉使いに違和感を覚える人もいるかも知れない。その議論も面白そうなのだが、そのための場は本文章の外に譲るとする。
※3
ここでいう「公共」とは、公的資金を投入して公共事業によって作られる公共施設における「公共」とは異なる。民間施設であろうと公共施設であろうと、時には自由で公共的な空間になり得るし、ならないこともあるということは、誰しもが経験の中で事実として認識していることだろう。
※4
政治的公共性の議論にも分断を前提とした社会づくりというものもあるかもしれない。自分の知識と経験の上では、建築物の壁や境界線ほどの強烈な分断であるとは思えないが、仮にそのような議論があるとしたら、ぜひご指摘いただきたい。
※5
建築をされている人の中には「そもそも無限の公共性を指向などしていない」という方もいるかもしれないが、公共性の議論は政治哲学、もしくは社会学の分野のものであり、本来の公共性は「政治的公共性」である。前提として政治哲学、社会学における公共性の議論があることを、建築において公共性、公共圏その他の用語を使う人は常に意識しなければいけない。
「とりあえず発言してみることが大事」などという言い訳をよく耳にするが、無責任で行き当たりばったりな他分野用語の援用は、他の知識体系へのディスリスペクトになる。
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MACAP代表 西倉美祝
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