月灯りと、ファジーネーブル。
春が去り、風が初夏の香りを運んでくるようになったある日の夜のこと。漆黒に包まれた海が見えるカフェへ、1人の女性が入ってきた。少し強い海風が、入り口のドアに付けられたベルを少し乱暴に揺らす。
こんばんは。
こ、こんばんは……。
お好きなところへどうぞ。
紺色のサンドレスに黒のショールを羽織ってるお姉さんがとても優しい声で促す。洋服のコーディネートがブラックのロングヘアを引き立てていて、星空が見える日の夜に眺める海のように美しい。
お飲み物は何にしますか?
あぁ……えっと……
オススメはありますか?
そうですねぇ……
オールドファッションはいかがでしょうか?
オールドファッション?
それ……お酒ですよね?
えぇ。そうですよ。
あの……ここカフェじゃないんですか?
カフェですよ。
でも夜だけしか開いていないですし、この時間にくるお客さんのほとんどはお酒を嗜まれますので。
はぁ……。
それに……お客様は未成年ではないですよね?
え、あ……はい。
なら問題ないですね。
一応コーヒーとかカフェオレもありますが……全部インスタントのネスカフェです。
は、はぁ……。
個人的にはですが、波の音を聞きながらお酒を飲むのもいいですよ。
そう……なんですか……。
あ、でももしお車でいらっしゃっているのでしたら……
あ、いえ、歩きなんで……
コーヒーか何かを飲むつもりだったので、まさかお酒を勧められるとは思ってなくて……。
たしかに。紛らわしくてゴメンなさい。
あ、いえ……
じゃ、じゃあ……ファジーネーブルをください。
かしこまりました。少々お待ちください。
カウンターからは氷のカランコロンという音が聞こえてくる。
静かに……けれどもどこか楽しそうな響き。
そこに外から波の音がかすかに聞こえてきて、なんだか心地よい。そんな静かな、けれどもにぎやかなお店が薄暗いこともあって、なんだかウトウトしてくる……。
お待たせしました。ファジーネーブルです。
ありがとうございます。
ん……あま……
お疲れのようでしたので……少しジュースを多めにしました。
……ありがとうございます。
あたし……疲れてるように見えますか?
……少し表情というか雰囲気が、
なんだか暗いと感じました。
……そう……ですか
波の音が、心なしか少しづつ大きくなっている気がする。
なんで……生きるのってこんなにつらいんでしょうね……
……何か不幸なことでもあったんですか?
なんというか……死にたいんじゃくて、これ以上生きていたくないと感じるというか……
そういう時お姉さんはありませんか?
そうですねぇ……。
あたしにも毎日そう感じているときもありました。
どこか憂鬱に感じていて……でもなぜか生きている……
そんな日々がありました。
店主のお姉さんは、静かに、そしてゆっくりとこちらに移動して、雲一つない日の海のような透き通った瞳をこちらに向ける。
あたしって……何のために生きてるんだろうって、
毎日のように考えていました。
でも、今は違う?
んー
正直……そのようなことを考えてしまう時もありますが、以前ほど多くはないかもしれません。
それは……どうしてですか?
どうしてでしょうか……あたしにもよくわからないんです。
ですが、ある時たまたまこの町に来て、夜に海を眺めていたら、何もかもがどうでもよくなってしまって……
気がついたらこうしてここに住み着いていたんです。
海を眺めていたら……
聞こえてくるさざ波の音は、少しずつ大きくなっている気がする。
えぇ。ここの海は、世界で一番キレイとは言いませんが……
眺めていると癒されます。
夜になると、月明かりとかの演出があるからかもしれませんが昼間よりもちょっとキレイにみえるんですよ。あたしみたいに。
冷蔵庫に入れておいたイチゴを勝手に全部食べてしまったようなオチャメな表情のお姉さん。カワイイ。
え、あ、そ、そんな……お姉さん……とても美人ですよ!
あまりにも突然そんな冗談を言われてから、上手く反応できずに変な言葉を返してしまった。恥ずかしい。
ふふ……ありがとうございます。
あ、いや、そういう意味じゃないというか……
今日初めてお会いしますしお昼に会ったことないですけど、変わらず美人だと思います!
……そう言っていただけてとても嬉しいです。
お姉さんは優しくそう返してくれたけど、今のフォローも上手くはない。ただ取り繕っただけ。いつもの私みたいに。私の人生そのものみたいに。
やっぱり……ストレスがないと、肌もキレイになるんでしょうかね……。
……ストレスは美容の敵というのは間違いないかと。
ストレスかぁ。
ここへ移住してきてストレスは感じますか?
それはまぁ……客商売ですので多少は……。
それに海風は塩分が多いですので髪とかも傷みやすいですし、ベトベトする日もありますので……不満がないといったらウソになりますね。
そうですかぁ……ウソになっちゃいますか……。
ですが、そこを差し引いてもここはとてもいい所だと思います。
心なしか、時間の流れがゆったりとしている気がします。
そうですか……。
やっぱりウソはよくないですかね……
よくない……とは……?
私、最近色々な人にウソばっかりついてて、でもなんだかそれがとても空虚というかみじめに感じてしまうんです。
時間だってそう。私の人生のはずなのに、なぜか他人の時間にばかり振り回されていて……自分では何も決められなくなっていっているようで……
それがこの先何年も続くのなら、こんなにがんばって生きてる意味ってあるのかなぁって思っちゃって……。
もう、なにもかもがわからなくなってしまった。
お姉さんは、私の言葉を先読みしたのか、私が言いたいことを一言でまとめてくれた。ファジーネーブルを少しだけ口につける。甘い。相も変わらずこのお酒は甘い。世界もこれくらい甘ければ……周りの人も、このお姉さん位みんな優しければいいのに。
確かに就職活動ってツラいですよね。
え……どうして……
突然お姉さんがその単語を発したので、心臓がキュッとなった。
あたしも同じような経験をしていたもので……すぐに察しがつきました。
はぁ……。
入りたくもない会社に履歴書を出し続けて、やっと面接に行けたと思ったら、学歴とか容姿とかだけで比べられて、その挙句に来るのは不採用の通知ばかり。
企業に指定された時間に指定の場所に行き続けるだけで、気がつけば何か月も経っているんですよね。
……私の事透視してました?
ふふふ。
そういう能力があれば便利ですよね。
朝起きたらそんな特殊能力が備わってくれていればいいのに。
自分の今の状況を言い当てられて、少し混乱している。
とっさに目の前にあるお酒に口をつける。
お姉さんも……そういう時にここへ来たんですか?
いえ……あたしの場合はもっとボロボロになってからでした。
え?
なんとか就職はできたんですが、あまり大きくない会社ということもあって、人間関係をこじらせてしまうとなかなか面倒で、常にピリピリしている職場だったんです。転勤とかもないですし。
相手の顔色をうかがいながら、色々な場面で色々なことを比べられ続ける。それがこの先何十年も続くと考えると、なんだかもうなにもかもどうでも良くなってしまったんです。
そうだったんですか……
すみません……ツラいことを思い出させてしまって。
いえ、とんでもありません。
今となってはそれなりの思い出です。
それなりの思い出……。
私もいつかそんな風に思える日が来るのでしょうか……。
それはなんともいえませんが……
月明りの下でお酒をひっかけていると……わりとどうでもよくなってしまいますよ。
私の場合はですけれど。
なんだか……とても穏やかな生活……。
そうですねぇ……。
都会の方で満員電車に押し込められるよりはストレスは感じないですねぇ。
いいなぁ……。そういう生活に憧れます。
まだ働いたこともないんですけどね。
……そういう生活もありだと思いますよ。
難しいことも多いですけど……。
そうなんですか?
まぁ……明らかに普通ではないというか、イレギュラーな人生設計をするわけですからね。
そんなにお金も稼げませんし、やはり周りと比べてしまうと色々と。
んー
言われてみれば……
まぁ比べなければいいだけなんですけどね。
でも……なんだかんだで比べてしまうじゃないですか、人間なんて。
自分がそうしなくても、周りはそうじゃないというか……。
そうですね。そこは……とても難しい所ですね。
いっそのこと……関係とか全部断ち切れればいいんですけどね。
……自分らしくのんびりとしたいだけなんですけどねぇ。
なんか……そう考えると、とっても生きづらい世界ですね。
……そうかもしれません。
氷がほとんど解けたファジーネーブルに口をつける。
相変わらず波の音が、静かにお店の中に響きわたっている。
どこか寂しそうで、でもなんとなく力強い。
耳障りには感じない、不思議な感覚がする。
本当に静かですねここ。波の音しか聞こえない。
えぇ。
お客さんが来ない時は月明かりの優しい光と波の音といっしょに好きな小説を読めていいですよ。
そういう時間が一番好きなんです。
ステキ。
でも、なんで夜だけしか営業していないんですか?
昼は他のカフェもあるので競争になってしまいますから。
というのは建前で、あたし夜型なんです。
なるほど……自由ですね。
ひとりですから、気楽でいいんです。
いいなぁ……
ふふふ。
お姉さんは、とてもやさしそうに微笑んでくれる。
闇のようにすべてを包んでくれるけれど、どこか暖かい。
このお店の雰囲気くらい、不思議なお姉さん。
それじゃあ……私はそろそろ現実世界に戻ります。
お会計お願いできますか?
はい。かしこまりました。
お会計を済ませ、波の音が聞こえてくる方向へ、少しだけ軽くなった心と脚を無理やり向ける。
あの……ありがとうございました。
とてもいい時間を過ごせました。
こちらこそ、ありがとうございました。
あまり無理なさらずに、お疲れが出ませんように。
ありがとうございます。
また……ここに来ていいですか?
もちろんです。
いつでもここでお待ちしています。
では……また来ます。
お店の扉を開けると、寝静まった夜と、静寂に包まれた夜空が広がってた。言葉を飲み込むようなその美しさは、今までいたカフェのような感じがする。冷たく微笑んでいる星々に見守られ、導かれながら、1人は現実世界へゆっくりと歩いて帰路へとついた。
続く?